「社会を変えるには」(小熊英二著、講談社現代新書、2012年)
小熊さんと二歳しか変わらないぼくは、1960年から80年まで、社会の出来事、政治、新聞、ニュースにはほとんど興味を持たずに過ごしました。しかし、本書により、生まれてから二十年間の社会と政治の動き、あるいは、全共闘、新左翼、浅間山荘など、聞いたことはある単語の意味の基本的な情報を知ることができました。
80年から2013年までは、ぼくも政治や社会運動に興味を持ち、それなりに読んだり、少し参加したりもしてきました。けれども、この時代についても、同年代の小熊さんがどのように感じ、分析していたかを読むことで、ぼくの中で断片的だったいくつかのことがつながって線になったり、あらたな意味を持つものになったりしました。
そういう意味で、ぼくの生きてきた52年間の社会と政治をあらたな角度で眺めることができ、とても楽しむことができました。
本書には戦後日本の政治や社会運動と並んで、プラトンからデカルト、ルソー、スミス、ベンサム、跳んで、現代のギデンズにいたる、政治についての考え方の変遷と共通課題についても、簡略ではありますが、わかりやすく述べられています。
さて、肝心の「社会を変える」方法(?)ですが、小熊さんは、まず、共同体のメンバーに、これは「われわれ」の政治だ、という意識がもたれることが必要だと指摘します。けれども、現代は「村」あるいは「労働者」などという形の「われわれ」は構成されにくいので、対話によっておたがいが変わりながら、あたらしく「われわれ」を作るしかない、と言います。
また、代議制によってももはや「われわれ」は形成されないので、集会やデモなど、直接民主主義の力によって、「われわれ」を生み出し、社会を変えていく方法を提示しています。
その際、重要なことは、集会やデモ、学習会などの参加者の中では、決定権は誰かに独占されず、分権、あるいは、共有にされるべきだと言います。自分の意見が反映すれば、参加や関心や学習の意識が促され、力がつく、と小熊さんは指摘します。
さらに、小熊さんは、首相や官僚も含め、現代の誰もが「誰も自分の言うことを聞いてくれない」「自分はないがしろにされている」という感覚を持っていると指摘し、これを変えることが、誰にとっても「社会を変える」ことになる、と述べています。
集会やデモなどが盛り上がれば、個人を超えた「われわれ」が作られる、コンサートなどの一体感と似ているが、全員が平等に参加することが違う、ともあります。
「自分たちが、自分個人を超えたものを「代表」していると思えるとき、それとつながっていると感じられるときは、人は生き生きとします」と。しかし、ポピュリズムのそれか、それとも、市民参加や社会運動のそれか、という選択が重要であると。
あとがきには、対話をすれば、対話ができる社会、対話ができる関係が作れ、参加をすれば、参加できる社会、参加できる自分ができる、とあります。
とすれば、この本が書かれ、読まれれば・・・どういうことが期待されるのでしょうか。
ぼくの属するギルドの人間関係、権力関係などには、参加しよう、変えようとすれば、できるのではないか、という気になってきました。
日本社会についても、Facebookなどを対話的に利用しつつ、「われわれ」を形成し、「われわれの作りたい社会」を共有する可能性も模索する価値はあるかとも思いました。