69 「神を求めても、ひとを離れるつもりはない」

「聖なるものの息吹 正教の修道・巡礼・聖性」(高橋保行、教文館、2004年)

 ギリシア正教会、ロシア正教会などの正教会については、ともすれば、来世や遁世的な神秘主義など、浮世離れしたイメージがもたれがちのようですが、この本は、そうではないということを述べています。

 「聖なるもの」とは、正教会儀礼や聖堂が荘厳さとともに醸し出す平安の源、つまり、「自分が生まれたところにもどったような気持ちにさせるこの平安のもと」(p.95)のことであると著者は言い表します。

 この聖なるものからの働きかけを「聖なるものの息吹」とこの本では呼び、それが「ひとのこころに入ると、ひとは自分が神の似姿であることを知らずのうちに認知して、一瞬でもその姿を回復する」(p.95)と言います。

 自分は何もできなかった駄目な人間だという思いの沼に底知れず沈んでいく者たちが、自分の中にも神のような大切な姿がある、という言葉に慰められ、あこがれ、さらには、その想いが少しずつでも自分の肉体に染み込んでいくことになれば、どんなに良いことでしょうか。

 人間だけでなく、この世界も、神の息吹に満たされています。ここは、滅ぼされるべきものでも、厭がるべきものでも、早く抜け出したい地獄でもなく、「聖なる神が、今まさに造りつつある」あるいは「今もって造りつつある」(p.101)世なのです。作品には作者の人柄が入るように、この世界は「神の気持ちをそのまま具体化している」(p.104)のです。

 神の子キリストの降誕は「天地とひとの体が、神を宿せるほどにすばらしいものである」(p.172)であることを明らかにします。

 こうしたことから、正教では「この世で生きるひと」を大切にします。国家による社会福祉以前に修道会は寡婦や孤児のケアをし、病院を営んできました。

 「この世にいて、神を心身ともに愛して、となりびとを愛したならば、この世にいながらにして永遠の生命、つまりキリストの復活の生命をまえもって味わうことができる」(p.204)。

 現実は厳しいですが、このような正教の見方を借りれば、あらたな想いで現実世界を生きることができることでしょう。