412 「神を受け取るハートとは」   「アウグスティヌス 『心』の哲学者」(出村和彦著、岩波新書、2017年)

 宗教改革者ルターの紋章の中心には、十字架がありますが、これはハートの輪郭に収められています。(「ルターの紋章」でネット検索すれば見つかります)。つまり、「心」で十字架を受け取る、ということでしょうか。

 ルターはアウグスティヌス修道会の出身であり、この「心」は、じつは、ルターより千年以上前のアウグスティヌスの言葉に由来します。

 「あなたは私たちの心を愛の矢で射抜かれました。そこで私たちには、はらわたを突き通したあなたの御言葉が身に染み渡っていきました。(『告白』第九巻二章)」(p.57)。

 これにちなんで、アウグスティヌス修道会の紋章には「心臓を射抜く愛の矢」が描かれているのです。ルターの紋章はその衣鉢であり、本書の題もここから採られたものです。

 では、アウグスティヌスにとって、「心」とはどのようなものなのでしょうか。

 「アウグスティヌスが求めたのは、神のことばをほんとうに理解することであった。ほんとうの理解とは、自己の内奥の核心で読み取るということである(・・・中略・・・)本当の意味を知る主体は、単なる自我(エゴ)ではなく、中心的な自己である」(p.56-57)。

 このように神のことばを理解する「自己の内奥の核心」「中心的な自己」をアウグスティヌスは「心」と言い表したのです。

 聖書は、キリスト教徒にとってはまさに「神のことば」ですから、聖書も「心」によって読まれます。

 「聖書とは、言語という『しるし』(記号)を通じて、神のことばの『意味』(事柄)を『心』によって内的に理解していく、人間の側からの読解・解釈作業を必要とする書物である。説教者は、まずもって聖書のことばを己の理解の限りを尽くして読み解釈し、『心』に入ってきた意味(事柄)を会衆とともに分かち合うべきである」(p.91)。

 そして、このような「心」においてこそ、人は神に向かうのです。

 「『心』へと立ち戻る道が、永遠なる神へと向かう道である」(p.99)。

 わたしたちは、自分の「感情」ではなく、自分の中心にあり、自分の中心である、「心」という受け皿において、神のことばと、いや、神自身と出会うのです。

 「自らを知るためには人間は感覚から身を引き、精神そのものに集中して自分自身に立ち戻るという習慣を身に付けることが必要」(p.66)。

 ここで「感覚」特別される「精神」は、アウグスティヌスが言う「心」にほかならないことでしょう。

 その「心」は、先の引用では「聖書のことばを己の理解の限りを尽くして読み解釈し」とありますから、理性的なものとも考えられますが、「『心』に入ってきた意味(事柄)を会衆とともに分かち合う」と続けられていますし、アウグスティヌスの著書「告白」には「あなたは私たちの心を愛の矢で射抜かれました」「はらわたを突き通したあなたの御言葉が身に染み渡っていきました」とありますから、感性的なものでもあったことでしょう。

 わたしたちは、理性と感性のそれぞれにおいて、何かに驚嘆することがあります。しかし、ほんらいは、精神は、理性と感性に二分されるものではなく、理解と喜び、それに驚きをもって、世界の核心、根源を感知する「わたしたちの内奥の核心」のことなのではないでしょうか。

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