54 「ヨハネ福音書を全く違う角度から、新鮮に読む」

ヨハネ福音書の特質 旧約から新約へ」(大河原礼三著、教友社、2012年2月8日)

 著者の大河原さんは、非権力的、平等的な生き方を、行動においても、思想においても、貫こうとして来た方だと思います。

 本書の前半には、旧約思想のうち、預言者的メッセージを中心に、著者が重視するポイントがまとめられています。そして、後半では、新約聖書ヨハネ福音書の描くイエス像にそれが反映されていることが説かれています。「非権力的」「平等主義的」「解放」などがキーワードになります。

 さて、著者によれば、専制賦役国家エジプトから脱出したイスラエルの人々は、サウル王、ダビデ王朝の出現以前に、「二〇〇年もの間、権力の象徴である偶像を拒否し、国家を形成せず、非権力的で平等主義的な、解放された部族連合社会を維持した」(p.16)とされます。国家ではなく、神による支配のもとで、人権を尊重するという預言者的思想が旧約の中心にあるというのです。

 そして、千年を経て、その思想が、ヨハネが描くイエスに現れているという主張が本書の柱です。ヨハネ福音書を生み出すことになったイエス派(イエスの十字架の数十年後か・・・)は、何らかの意味でユダヤ社会で抑圧を受け、排除されていた、と著者は想定します。

 ヨハネ福音書の登場人物、「サマリアの女、サマリアの町の人々、瀕死の病人の家族、飢えた民衆、盲目の乞食、ライ病人シモンの家に集まる女性たち(マルタとマリア)など、ユダヤ社会から排除された人々、困窮した人々、最底辺の民衆」(p.136)は、「支配者・権力者とは正反対の極にいる人々」(p.137)なのです。

 イエスは、こういう人々にとっての非権力的なメシアとして描かれています。そして、福音書の描き出すイエスと周辺には、さらには、ヨハネ福音書を生み出したり手にしたりするヨハネ共同体には、旧約の預言者的平等主義が現れたと著者は考えます。

 それは、モーセとイエスの相似、あるいは、「わたしはある、わたしはある」(I am what I am)(出エジプト記3:14)という神の自己開示と、ヨハネ福音書に特徴的な「わたしだ」(I am)(ヨハネ6:20)のイエスのそれが、どちらも「ともにいる」ことを示している点、などからも支持されます。

 著者はまた、贖罪は誰かに代わってもらって(代贖)「赦される」ことではなく、「内なる権力」(罪)を焼かれて、つまり、「裁かれ、焼かれて、自己否定を経て非権力的・体制外的な生き方へと自己変革すること」(p.67)だと言います。

 イエス派を排除するきっかけとなった「ヤムニア会議」については、最近はこの会議の存在を否定する学説もあるようですが、それにもかかわらず、大河原さんの旧約とヨハネの読みには、まさに、本質的なものがあると思います。