48 「軍国主義、原発主義、不敗神話、安全神話、そして破綻」

「犠牲のシステム 福島・沖縄」(高橋哲哉集英社新書、740円、2012年1月22日)

 福島の人びとは、日本国家のエネルギー政策、そこから利益を得る人々、東京電力東京電力からの電力によって快適な生活をする消費者、都市住民の犠牲となって、町や土地や共同体や平和な生活を破壊されてしまいました。

 沖縄の人びとは、土地を戦場とされ、敗戦後も、基地と軍人にいすわられ、アメリカ政府と日本政府の利益のために、経済、生活、共同体、未来、希望などにおいて、巨大な規模の抑圧を受け続けてきました。

 「「軍国主義」も「原発主義」も、莫大な国費を投入して推進された国策であり、「不敗神話」や「安全神話」をつくり上げて一切の異論を排除し、「大本営発表」によって国民を欺き続けた挙句、破綻したという点で実によく似ている。わたしの言葉で言えば、軍国主義とはすなわちヤスクニという犠牲のシステムであり、原発主義とはすなわち原発という犠牲のシステムであった。」(p.72)

 著者はさらに「8・15が軍国主義とその犠牲のシステムが破綻した敗戦の日であるとすれば、3・11は原発主義とその犠牲のシステムが破綻した「第二の敗戦」の日である」(同)と述べています。

 本書は、福島の人びとが今回の事故以前から事故以後にわたって日本のエネルギー政策と経済発展の犠牲とされ、沖縄の人びとが日米の軍事政策の犠牲とされてきた経緯をコンパクトにまとめています。これらの問題についての関心を持ち始めた人には適切な整理を提供してくれることでしょう。

 その上で、「責任者の遁走を許さず、犠牲のシステムの延命を阻止すると同時に、国民自身もそれぞれの責任を自覚して、犠牲のシステムに頼らない新たな社会の構築をめざすこと、これである」(p.72)、「だれにも犠牲を引き受ける覚悟がなく、だれかに犠牲を押しつける権利もないとしたら、在日米軍基地についても原発についても、それを受け入れ、推進してきた国策そのものを見直すしかないのではないか」(p.216)と結んでいます。

 ちなみに、本書では天罰論についての批評が展開されていますが、内村鑑三のそれについてのところなどを読んでいますと、イエスを供犠とみなすキリスト教の贖罪論が災害の被害者をもそのような文脈においてしまうことに気がつかされます。十字架上のイエスを「贖罪の献げ物」としてしまっていいのか、別のゆたかな表象がないか、考え直したいと思いました。

 もうひとつ。佐藤優氏が3・11直後に「国家翼賛体制を確立せよ」と訴えたことへの著者の批判がありました。わたしは無知なことにそんな訴えがあったことは知りませんでした。佐藤優さんの著作には少し関心を持ってきましたが、彼が最近しきりにキリスト教関係の出版、発言をする流れの行先に何があるのだろうかという疑問がふとわいてきました。