(34)「すべてが益になるわけでは」

6:12-13

6:12すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。

 パウロは11節で「主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められた」と言っています。すでに「聖なる者とされ、義と認められた」のであれば、何も良いことをしなくてもいいのでしょうか。あるいはどんな悪いことをしてもいいのでしょうか。そんなことはありません。たしかに、神さまから聖なる者とされたい、人々から良い人と呼ばれたいから必死になって良いことをしようとする、そんな苦しい生き方からは解放されるのです。けれども、今度は、すでに「聖なる者」と呼んでいただいていることに感謝して、少しでもそれに答えるように、隣人を大切にする生き方へと招かれているのです。しかし、これはどこまで到達できるかは問題ではなくて、少しずつ、いや、少しでも、前に進み続けることが大切なのです。また、聖なる者とされていることを喜んで、少しでも、人を傷つけない生き方を求めるのです。

(※雑誌「百万人の福音」(2008年9‐12月)に掲載されたものです。新改訳聖書から引用しています。)