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「十字架のことば」

1:18十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

 「十字架のことば」とは、神の子がわたしたちのために十字架についてくださったということです。けれども、ふつうはそのようには考えません。十字架という極刑に処せられたイエスが神の子であるはずがないし、それが神さまの愛と恵みであるはずがないのです。弱さを捨てて力の強い者になること、罪を全く犯さず人を裁く正しい者になること、苦しみと無縁な者になることこそ救いである、と人間は考えます。十字架は、その正反対で、弱い者、罪を犯した者、苦しむ者を思い出させせます。ところが、自分の弱さ、罪、苦しみから逃げずに全身で取り組む人々にとっては、十字架こそが救いなのです。自分は弱く、罪深く、苦しむ人間だ、けれども、神の子イエス・キリストが神の栄光と全能を誇るのではなく、十字架の上で、その弱さ、罪、苦しみを背負ってくださる、このように愚かに思える神の子の出来事こそが、じつは、神さまの救いなのだとパウロは言うのです。

(※雑誌「百万人の福音」(2008年9‐12月)に掲載されたものです。新改訳聖書から引用しています。)