30 「長編小説は愛を描く」

「取り返しのつかないものを、取り返すために 大震災と井上ひさし」(岩波ブックレット

 ぼくは井上ひさしの本はほとんど読んでいますが、大江健三郎の本はほとんど読んだことがありません。ヒロシマノートの一部をどこかで読んだかもしれない。大江光さんのCDのノートや映画「静かな生活」のパンフレットに何か書かれていて、ちらっと見たかもしれない。それくらいです。

 ところがこの二人は非常に近い存在のようです。どちらも敗戦後を代表する日本語作家だから当然のことかもしれません。お二人とも「九条の会」でもあります。

 このブックレットに掲載された大江さんの講演によると、井上さんが25歳の時に書いたノートにこうあるそうです。「大江の小説を読むと、そこには愛というものがない。」「あらゆる愛から、彼が門外漢であるだろうことは、容易に想像できる。大江氏は長編ですぐれたものを書くことはできないのではないかと危惧する。長編では、愛を描くほかなにものをも書けないからだ」(p.42)。かつて、遠藤周作五木寛之を同時期に読んだころに、五木寛之には救いがないと思ったことを思い出しました。

 大江さんは、また、「井上さんは、『難しいことをやさしく』と言うでしょう。私は、机の前に座ると、『やさしいことを難しく』書くんです(笑)」(p.41)とも述べておられます。

 ぼくはこれから大江さんの本を読むことがあるかどうかはわかりませんが、大江さんが最後になるかも知れない小説について、「向こうの世界の井上さんに、『私は・・・愛というものを書きました。つまりこれは長編小説となっているのじゃないでしょうか』ということを呼びかけたい、その気持ちをもって仕事をしています」(p.43)と書いておられていて、この小説はぜひ読みたくなりました。

 ところで、大江さんは、今度の原発事故で「ほんとうに取り返しがつかないことが、いま、私らの世界に起こっている」(p.57)と書いておられます。

 この「取り返しのつかない」ことはどうすれば「取り返す」ことができるのでしょうか。それは「未来がある」(p.56)ことを発見することだと大江さんは言います。

 井上さんが広島(これも大江さんとの接点!)の原爆で死んだ父と生き残った娘を描いた戯作「父と暮せば」を大江さんは説き明かします。この劇では、原爆で亡くなったお父さんが娘にあらわれて娘には「未来がある」ことを見出させます。大江さんによれば、死んだお父さんが現われるとは「取り返せない」はずのものがあらわれることであり、未来があることを教えられたことで、娘は「おとったん、ありがとありました」と言う・・・「取り返せないものを取り返す」とはこのようなこなのです(p.56)。

 原発事故の起こした事態は「取り返しのつかない」ことですが、これを「取り返してやろう」という心をわたしたちがしっかりともち、その心の働きが実れば、数十年後、わたしたちは子どもたちから「ありがとうございました」と言われるかもしれない、あるいは、わたしたちが将来の人々に「ありがとうございました」ということができるかも知れない、と大江さんは語っています(p.57)

 「取り返しのつかない」ことになってしまったわたしたちの現在が、「ありがとうございました」の未来へと続くのなら、それは、まさに、長編で愛を描くことでありましょう。