(4)私の物語としての聖書


(3)で述べた「信じる」の持つ排他性、強弁を克服するためには、聖書を物語として読むことが良いと思う。しかし、聖書は、私を包み込む「大きな物語」であるばかりでなく、いや、それ以上に、私自身の物語ではなかろうか。端的に言って、預言者たちやイエスの言動に共感し、そこに、自分の姿が自ずと重なり、この重なることに慰めと希望を見出すのである。
 聖書の物語は共感できるものだ。聖書の物語を読む時、自分の中にはこれまでなかった価値観を教えられたり、自分の加害性を指摘されたり、自分には選択しにくい行動を命じられたりすることがある。また、そのことに自分が打ちのめされて、古い世界から新しい世界への移動という容易ではない状態に放り込まれることがある。あるいは、苦境の中からこれまで見えなかった新たな地平を示されることもある。しかし、私がこれまで感じたり考えたり行動したりしたことが追認=肯定されるような経験も起こる。両者は矛盾しない。むしろ、両者が同時に起こることも珍しくない。聖書の物語は、私が既に知っている世界に、あらためて招き直してくれることもある。両者の経験に共通するのは、(私は聖書に)共鳴できる、納得できる、(私は聖書から)共鳴されている、納得されている、ということではなかろうか。
 イエスの言動には非常に共感を覚える。また、イエスが私に共感を示してくれるようにも感じる。私が怒ったようなことに対してイエスが怒り、私がキレたようなことに対してイエスがキレる、私が心を痛めたことに対してイエスも心を痛める。イエスから示された世界=神の国は、全く新しい世界であると同時に、私が経験したり望んだりしてきた世界である。イエスに説得的な希望を示されると同時に、私と同じ精神作用をイエスに見、イエスが私と同じ精神作用をすることで、私の存在が根底から肯定される、ここに、聖書を読む慰めと希望がある。これは、イエスとの相互作用によって生じるものである。
 イエスは打ちひしがれた人々のためにはらわたを痛めた。私も路上で野宿を余儀なくさっる人々、指紋押捺を余儀なくされる人々と出会った青春期、今すぐどうにかしなれば、という痛みを覚えた、イエスは打ちひしがれた人々を打ちのめす人々に怒りを覚えて、皮肉な調子で、あるいは、語気を荒げて、向きになって、抗議をした。私もそうした。イエスはラディカルな平等主義に徹しようとした。私にも平等をラディカルに実現したいという衝動がつねにある。イエスは病人を何とか癒そうとした。私も何とかしようとした。イエスは組織から打ちのめされた。組織から非難された。組織はイエスを門の外に追い出した。私もそうされた。イエスはその言動において、私の怒りと情熱と悲しみと希望と喜びへの共感を示してくれた。私はイエスに肯定されたと思った。しかし、それにもかかわらず、私は、人を見捨てたり、組織悪に迎合したり、反対の声を上げなかったり、不平等を働いたり、放置したりもする。私は組織に残るための心配をする。その私を見るイエスのまなざしは、私を創造/再生し、創造/再生された私はイエスのまなざしを共有/再共有する。今度は私がイエスに共感し、肯定する。
 これがイエスの物語が、私の原物語であるということの意味である。私がこの物語を持つことは、排他的でもなければ、強弁でもない。私は、自分の原物語を反芻しているが、その物語を持たない人を排除しない。その人にも、その人の物語があるであろう。それが、いのちの物語であれば、より上位のフォルダにおいて、共存し合うことであろう。また、私はイエスの物語に生きる時に、科学的理性との葛藤を避けることができる。「神の存在を信じる」ことには、どうしても客観的判断をしようとする他者や自分の理性を押さえ込まなければならない。物語に関してはそのような抑圧を回避しうるのではなかろうか。
 聖書を読む時、イエスに従う時、それがどんな形式であっても、「全てを任せる」「ただひたすら付き従う」ことなどは、不可能である。たとえ、外界の影響があったとしても、既存のイメージに大きく縛られていようとも、結局は、自分の好みにおいて判断しているのである。自分で聖書の解釈をし、自分でイエスの像を描いているのである。自分で作った、あるいは、自分に親しみのあるイエス像に従っているのである。それならば、受け身を装って、無批判な主観のままに生きるよりも、主観的判断であることを率直に認めて、その主観と批判的につきあいながら、聖書や神を判断する基準を聖書外に持つ方が、「信じる」ことの傲慢さを緩和できるのではなかろうか。