41  「自分の宗教資源を手に、病者と向き合う」

「病院チャプレンによるスピリチュアルケア  宗教専門職の語りから学ぶ臨床実践」(柴田実先生、深谷美枝先生)

 死が遠くなかったり、死に脅えたりする入院患者さんの前に立つ時、病院のチャプレンや同様の立場の者は、自分の信仰に対し禁欲的になり、それを封じ込めるべきなのでしょうか。

 著者たちは、いや、そうすべきではない、と答えることでしょう。最初から信徒獲得を目的としたり、宗教的価値観を教え込もうとしたりするのは論外だが、たとえば、患者さんが「自分は赦されないひどい人間だ、病気はその罰にちがいない」と苦しんでいる時に、チャプレンらがもっている「神は因果応報的に罰するのではなく、むしろ無条件に赦してくださる」という信仰を示すことで、患者さんのたましいに働きかけるようなケアは積極的になされるべきだ、と述べておられるように思いました。

 この本には、十人近くの病院チャプレンらへのインタビューと、それに対する著者らの分析がふんだんに載せられています。また、数多くの外国語文献からの引用や省察も示しつつ、深く広く緻密な論が展開されています。それらを通して、病院チャプレンは自分の信仰を活用すべきであることが論じられています。

 わたしもそれに賛成します。その上で思うことは、聖書やキリスト教史の中には、さまざまな信仰的立場があるので、自分が深くコミットしていないような信仰のあり方であっても、その患者の状況にあうものであれば、資源として活用することもできるのではないかということです。極端なことを言えば、神はどんな悪人をも救うという信仰も、はんたいに、神は正しい者を救うという信仰も、聖書には見られますが、患者さんの霊的な状況に応じて、どちらでも宗教資源として利用できるのではないでしょうか。

 キリスト教や聖書に見出される非常に重要な宗教資源としては、本書でも言及されているように、神がともにいること、赦しをもたらすこと、永遠の命を与えることなどがありますが、死に向かい合うという状況に絡めて言えば、ケノーシス、つまり、自分を無にする、ということもあると思います。復活するから死はこわくない、神がともにいるから安心だということだけでなく、自分が(少なくとも一旦は)無になることを引き受ける、苦い杯を飲むという宗教的心境も、また、重要なリソースではないでしょうか。

 類書のない力作、大作です。第一章はそのままキリスト教入門書というか、キリスト教を的確かつ美しくまとめています。それ以降の章は、本格的な医学書として、専門家の読書にも耐えうるどころか、啓発していくものでありましょう。素人のわたしは、まったく新しい世界を示していただき、心より感謝いたします。
 
 欲を言えば、告知をめぐるスピリチュアルケアの問題についても学びたいと思いました。、それから、「罰」というような自分を苦しめる宗教観がかなり根強くて、なかなか「赦されている」と認知できない人も少なくないように思うのですが、そういうケースについての考察も、今後読むことができればと思いました。