27 「すでに救われているのか、さあ、これからか」

「福音と世界 2011・10 特集=ラインホールド・ニーバー没後40年」 

 ニーバーは1914年生まれのアメリカの神学者ですが、ぼくは一冊も読んだことはありません。

 けれども、「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」という有名な祈りは、さすがに知っていました。

 今回、雑誌「福音と世界」のニーバー特集を読むと、この人はプラグマチスト(実用主義者)とあり、そういえば、この祈りも実用的だなと思いました。プラグマチストは何か一つのことを普遍的な真理とはしないそうです。

 ところで、このニーバーは、バルトという人の「イエス・キリストは罪と死、悪魔や地獄から力を既に奪っており、神と人間にかかわる正義が実現していることを、その人格において既に証明している」という言葉を批判しています。

 つまり、悪の力は既に滅ぼされている、あなたもその救いの中にあるなどと言うと、人々が自分をキリストとともに十字架につける覚悟で、不正義な世界に立ち向かわなくなってしまう、そうすべき責任を放棄してしまうというのです。

 はたしてそうでしょうか。すでに救われているなら何をして生きても一緒だから私利私欲のためだけに生きようと口にする人はたしかにいるかもしれませんが、それは、そういう生き方に甘んじる言い訳であって、すでに救われているなどとは本当は思っていないのではないでしょうか。

 また、ぎゃくに、正義の社会を完成させるまでは人間は救われないとすれば、それは何と絶望的な道のりなのでしょうか。

 ぼくは、一人一人の人間はすでに神の救いの中にあり、今神とのつながりにおいて生かされていると思いますが、だから何もしなくても良い、というのではなく、それへの感謝、応答、その恵みを受けた者の責任として、この世の不正義によって死や虐待を余儀なくされる人がなくなる社会を目指すという大きな大きな流れの一滴になろうとすべきだと思います。

 あるいは、一人一人の人間は上記の意味では救われていても、この世は不正義、抑圧、暴虐という面では救われていない、しかし、神はたしかにこの救いの業をなしつつある、その完成も約束されている、だから、その業への招きに応じたい、と言うこともできるでしょう。

 実用主義的に言うならば、ある一人の人間が自分には存在価値がない、自分は神に愛されない、と苦しむ時は、「すでに」と言い、人格やいのちを簡単につぶす社会や国家、組織の暴力に苦しみ、立ち向かう時は、「さあ、これから」と言うべきではないでしょうか。

 信仰や神学の引き出しはひとつよりもたくさんあった方が良いと思います。

 神よ、その一瞬一瞬にふさわしいのはニーバーなのかバルトなのかを見分けるソフィアをわけてください。