(1) 20世紀の遺産は崩壊したか?


 2001年9月11日にニューヨーク等で起こった「アメリ同時多発テロ」、そして、ブッシュ大統領アメリカ政府、また、マスコミが伝えるアメリカ市民の声、すなわち、「テロリストに対して正義の報復を、正義によるテロの根絶を」、この両者の衝撃は強く、また、私の中に激しい怒りを生じさせるものであった。世界市民、世界民衆が、20世紀を通して大切に積み上げ、21世紀の開始において、この時代の基となると思われた遺産が、いとも簡単に無化されたという無念さがたちどころにこみ上げてきた。怒りは、テレビのブラウン管を通して、ブッシュ大統領、そして、小泉総理大臣の姿を見るごとに新たにされる。彼らの姿は、後述する「信仰者」の姿そのものだ。

 しかし、時間が過ぎるに連れ、20世紀からの財産が決して死ぬことなく、むしろ、たしかに生きていることを、再確認できつつあることは幸いである。10月12日、日本基督教団東京教区北支区世界宣教部主催「フィリピンの夕べ」において、UCCP(フィリピン合同教会)のbishop emeritus(名誉監督)は、ミンダナオ島において、キリスト者イスラム教徒(モロ民族中心)に対するmissionを行うと言う時、それは、イスラム教徒をキリスト教徒に改宗させることを意味しない、そうではなくて、たとえば、若者が学校で学ぶことを支援するような愛の行為を指している、と語った。また、10月13日に開かれた西東京教区の緊急集会「武力によらない平和を!」では、イスラムの人々はイスラムのままで神に祝福された存在である、キリスト教イスラム教の対決という枠組みを持ち出すことは不適当である、という発言が繰り返された。

 ここには20世紀が得た特筆すべき価値観の一つ、つまり、多様な価値、多様な文化の認識、そして尊重が、たしかに生きている。すなわち、「私はこのように信じる、あなたはそのように信じる」、これらのそれぞれの事態が尊重されるべきであり、また、二者が併存する事態も美しい、という価値観である。

 本稿は、この価値観に基づいて、聖書をどのように読み、神学をどのように形成し、牧会をいかに展開するか、そのような個人的な記述作業の入り口として、自分の中に、これまで散在していた考えを少しまとめてみたいと思う。

 しかし、20世紀の継承のみならず、21世紀的発展を巡って考えておきたいこともある。すなわち、「私はこのように信じる、あなたはそのように信じる」という時の「信じる」という精神作用の問題である。「私は」「あなたは」という条件提示によって一定の相対化を実現してはいるが、「信じる」という精神作用、また「信じる」ことの表明には、まだ、他を排除する「絶対宣言」が含まれてはいないだろうか。

(※本稿は「聖書と神学と牧会−ペルー人牧会、その他の視点から−」と題し、「青山学院同窓会基督教学会」の2001年秋の研修会で発表した文章の第一章です。)