(3)「信じる」とは何か、聖書は「信じる」対象なのか


ペルー人教会では、時々、日本人のために祈りがなされる。その中には、「まだ、神を知らない日本人に神を知らせてください」という項目が含まれていた。スペイン語や外国人との連帯に関心のある若い日本人会衆に対しても、いつかは、神様を知って、amigos 友人 から hermanos 兄弟姉妹 へ変わることが期待されていた。私はある日系ペルー人夫婦に疑問を投げかけた。では、キリスト教徒であるペルー人政治家たちが犯している悪事の山はどういうことなのだ。それは、口では信じているといっているが、本当は神を信じていないからだ、という答えが来た。この夫婦は、自分たちの解雇経験を経て、市民組合の活動に参加し、在日ペルー人の労働者意識、権利意識高揚に努める中で、石原都知事に代表される外国人差別意識の蔓延とそれに支えられる社会構造を認識するようになった。

ペルー人教会では、私のスペイン語説教の前に、この夫婦の内の男性による聖書についての「話」がなされる。これは、スペイン語母語による礼拝の理念を掲げながらも、日本社会において言語、経済などの面で自ずと優位に立つ日本人である私が、会衆の母語で「説教」をすることに含まれる傲慢性を縮小すること、より端的には、やはり、会衆の耳に聞き安い発音や文章によって、聖書について語ることの必要性を感じたのである。この男性は、インターネットや書籍などから、時には、愛を伝える明解かつ心に訴えるエピソードを、時には、組合の活動その他で得た社会正義に関する考えを、その時間に語り続けている。彼は、若者に好まれるような非常に現代的な讃美歌を紹介して、それまで私が行っていた式文中心の退屈な礼拝を改革するという面も持っている。礼拝に参加する者は、心に響く讃美歌によって文化的情緒的宗教的な満足を得ながら、同時に、彼の語りによって、平和と正義のメッセージに刺激されることになる。その彼が、先日、ブッシュ大統領を非難した。自分たちが世界中でなしてきた暴力の歴史を反省することなく、「正義」を持ち出し、神の名をちらつかせるブッシュは、イエスの弟子ではないと。彼の信仰は間違っていると。テロを擁護するようなイスラム原理主義者の信仰も間違っていると。彼は、今、キリスト教徒ブッシュよりもイスラム教徒アフガン難民を神は顧みている、と主張している。

「信じる」とはどういうことであろうか。一番目に、客観的に認識されないとするものの存在を信じる、ということが考えられる。二番目に、「信頼する」という意味が考えられる。また、三番目に、信じることは解釈することであるとも言われる。聖書を信じる場合は、どのような信じ方が、20世紀の成果を継承し、さらに発展させるのであろうか。

一番目の点について。「神を信じる」という精神作用には、「神の存在は、客観的、科学的には示すことができないし、したがって、万人が納得することのできないものであるが、自分は強くそう思う」ということを含むであろう。奇跡ということに関しても同様である。この作用は、非客観的であるがゆえに、排他的に、また、その対象(神)には、その人の人格の重要な部分が担わされているがゆえに、強弁になりがちである。また、その排他性や、強弁が、「信じる」本人の心にも負担を与えることも考えられる。そのような圧迫感を抱えながら、「信じる」側に身をおいていると、排他性や強弁がさらに強まってしまう。本当は「信じ」切れていないという事態を押し殺して、「信じる」側に身を置くことは、大きな自己疎外ではなかろうか。言い換えれば、「神の存在を信じる」という作用は、じつは、「神の存在を信じる自分の精神作用を肯定する」ことではなかろうか。

神の存在を疑うキリスト者は少ないかも知れないが、処女降誕、物理的な意味での復活、死後の世界の生活のような非科学的な事柄を、しかし、いのちに満ちたメッセージを、再解釈した上で、自分や他者の慰めや希望とするような聖書の読み方は、以前より市民権を得てきたのではなかろうか。また、堕落→神の子の受肉→十字架による贖罪、という教理=信仰内容枠以外にも、聖書には生きたメッセージが満ちていることが、20世紀の聖書学、聖書神学、組織神学などによって示されてきたように思う。神の存在を「信じる」という枠組み以外には、聖書を生きる糧にし、神学を営む道はないのであろうか。

神は霊である、という時、それは、非物質存在であることのみを指しているのであろうか。存在というパラダイムから脱した神とのつきあい方はないものであろうか。UFOが存在する、というのと同様の範疇での存在を「信じ」なければ、神について語れないのであろうか。確かさの基盤を神の存在におかなければ、聖書のメッセージを最も大切なものとして生きる生き方は不可能なのだろうか。神の存在は信じられないが、神の愛、神の正義、神の希望は信じられる、というあり方は、邪道であろうか。

二番目に、「信じる」は「信頼する」を意味しうるが、これは、どうであろうか。「信頼する」が、「試行錯誤や関係修復を重ねながら、つきあっていくに値する」ということ以上の意味を持つ時、そこにも、排他性と強弁が生じる。「神は必ず〜〜してくださる」、これは、強い信頼感の表明であるが、神や神からの行為を期待する自分を拘束する精神作用ではなかろうか。私たちは、ブッシュ大統領とともに「神は必ず勝利をもたらす」という言葉を共有することはできない。一つは、そこで言われる中味に、つまりこの出来事の予想に賛成できないのであり、もう一つに、この言葉の政治的背景、政治操作性に嫌悪感を覚えるのであり、そして、神を自分の都合の良いように規定してしまう、つまり、自分で都合の良い神を作り出し、それを、祭司の託宣のごとき語る姿に旧約預言者たちが糾弾してきた偶像崇拝者の姿を見ざるを得ない。ブッシュの場合は、権力者の傲慢であり、政治的に計算されたものであるが、民衆の場合、このような「信じる」=「信頼する」が、期待像の押しつけという形をとりうる。「神がきっと病気を治癒してくれる」「神がきっと正義と平和の闘いに勝利をもたらしてくれる」「祈れば、きっと、通じる」このような「信頼」は、この信頼を共有できない人を不信仰者として斥け、また、じつは、「祈っても通じない」という素朴な感情を抑圧してしまうのではなかろうか。むろん、ここには、「全ては神の御心通りに」という逃げ道がある。しかし、この言葉は、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という意味で用いられるべきであって、テロもみこころ、報復攻撃もみこころ、全ては万能の神のシナリオ通り、ということであってはならないと思う。

ユディト記において、アッシリアに包囲され乾きにあえぎ降伏を主張する人々に、オジアは「あと五日耐え抜こう。その間にきっと、神なる主は憐れみをもって我らを顧みてくださる。」と励ましのつもりで答えるが、ユディトは、これを咎め、「たとえこの五日以内にわたしたちを助ける御意志がないとしても、主は、お望みの日数の間わたしたちを守ることもでき、また、反対に、敵の前で滅ぼすこともおできになるからです。神なる主の御意志を束縛するようなことはやめてください。『神は人間と違って脅しに左右されることなく、決断を押しつけられることもない』のです。ですから、神からの救いを待ち望みつつ、助けを呼び求めましょう。御心ならば、わたしたちの願いを聞き入れてくださるでしょう。」と言う(7〜8章)。「御心ならば」という言葉遣いには先程のような懸念を覚えるが、押しつけ的な「信じる」=「信頼する」の問題を見抜いた記述ではなかろうか。「信じる」のこのような構造を克服した聖書の読み方、神とのつきあい方はないものであろうか。

三番目の「解釈する」という意味での「信じる」には、20世紀的な遺産と21世紀における展開が盛り込まれているように思う。しかし、この場合の解釈は、ブッシュ的な、あるいは、解釈改憲的なご都合主義解釈のことであってはならない。「解釈する」とは、物事の可能性を阻む固定化した観念を打ち破って、変わらないように見える困難な現状に風穴をあけるような精神の働きであるべきだと思う。「希望を持つ」と言い換えることも出来よう。この精神作用こそが、族長物語、出エジプト預言者、イエスパウロを貫くものであり、「信じる」の聖書的なあり方ではなかろうか。