38  「自分こそが元凶の一人という痛み」

論文「日本基督教団における沖縄教会観の起源とその変遷」(一色哲)(『キリスト教史学』第六一集抜刷 二〇〇七年七月十三日発行 キリスト教史学会)

 1940年代以降、沖縄教区以外の日本基督教団は沖縄の教会をどのように観てきたのか、についての研究論文です。

 今回、次のようなことを学びました。

1)日本基督教団関係者の多くは、沖縄を「貧しく、困窮している」とみなし、それを「支援しなければならない」という歪んだ沖縄観を持っていた。

2)(のちに沖縄教区となる)沖縄の教会は貧窮ゆえに日本基督教団への復帰を希望していると、沖縄を訪問した教団関係者は誤解していた。

3)訪問者たちの中には、沖縄の教会は「遅れて」いるので支援や教育が必要とする者もいた。

4)日本基督教団の機関紙や委員会が、沖縄の教会を「海外の教会」として扱うことがあった。

5)日本基督教団アジア諸国への戦争責任議論が交わされる時も、沖縄住民の反基地闘争や日本復帰運動への連帯を模索する沖縄の教会のことは視野に入れられてなかった。

6)日本基督教団と沖縄の教会が「合同」して「ひとつ」の教団になる時、両者にとって、「ひとつ」の意味が大きく隔たっていた。日本人はすでに日本人で「ある」が、沖縄人は日本人に「なる」ための努力を求められる。「「一人前の日本人」になった沖縄人は日本で日本人に混ざり、自らの出自を薄めながら日本社会で一定の地位や名誉を築いていった。しかし、そうすることができなかった沖縄人は日本に行っても沖縄人の集住地区に押し込められて生活せざるを得なかった。そこに「沖縄差別」が発生する。このように、沖縄人が発する場合の「同じ日本人」、あるいは、「ひとつの日本」と日本人の発するそれとは、それが意味するところに構造的な「隔たり」が存在していた」(p.132)。「合同」の際にこの「隔たり」に日本基督教団は無自覚であった。

7)1950年代から60年代、日本の神学校に「留学」した牧師たちがいた。この牧師たちは日本基督教団「戦責告白」の理念に共感して、「ひとつの教団に『なる』」ことを選択した。つまり、日本基督教団のほとんどの者にとっては自分たちは最初から日本基督教団で「あり」、合同とは自分たちはそう「ある」まま、沖縄の教会を吸収してしまうことであったが、沖縄の教会は、「隔たり」を乗り越え、相手の持つ良き理念に敬意を払い、「ひとつの」教団に「なる」ことを目指したのである。

8)「合同」後、日本基督教団は「沖縄セミナー」を二回開いたが、第三回は中止になった。その一因について、原崎清さんは「いつの間にか自分を沖縄の側に立ててしまい、この自分自身こそがほかならぬ元凶の一人であるという痛みを」忘れてしまったという。しかし、一色さんは「沖縄教会から最も痛烈に批判を受けたと思われる原崎は、じつは最も良く沖縄を理解しようと試みたものではなかったかと思う」(p.135)と述べている。

※これは非常に大切な指摘だと思います。誰かを理解しようと試みればみるほど、そして、その暫定的な理解をそれぞれの段階で口にしたり文章にするしたりすればするほど、理解の誤りや不十分さが明らかになり、批判を受けることがあります。その批判をおそれずに、試行錯誤を続けることが、何がしか鍛えられた理解につながっていくのではないでしょうか。原崎さんも、この批判を通して、「この自分自身こそがほかならぬ元凶の一人である」ことを再三再四確認し、元凶の一人であることを怒りでもって否定することなく、痛みとして抱えつづけたのではないかと思います。

9)「日本教団が沖縄教会とむきあうということは、問題を抱え呻吟する沖縄教会に同情することでもなく、彼らを貧窮する者と決めつけて援助することでもない。また、自らがかかわることによって沖縄教会を改良することでもない。自らのなかに内在する植民地主義以降の植民意識を自覚し、自画像を把握し、それによって自分自身を変えていくことにほかならない」(p.137)。

 これが一色さんのこの論文の結論です。最後のセンテンスは原崎さんの言葉と共振していると思います。キリスト教は「罪の告白」をしますが、それには、自分が加害者=元凶であると認めること、そして、誰に対してそうであるのかを日常生活でも歴史の振り返りの中でもつねに考えていることも、当然含まれると思います。