(5) 聖書を判断する私、相対的なものと絶対的なもの

聖書は神の言葉であり、私たちは聖書に「聞く」。しかし、そこには、聖書の言葉を解釈したり、評価したりする自分もいる。神や神の言葉である聖書が無条件に絶対的なものであって、私たちがそれに絶対無条件服従するのではない。たとえば、天地創造者であったとしても、それが、つねに死をもたらし、死を命じる者であれば、その前に跪いて服従することはできない、と判断する私が存在するのではなかろうか。このような私はどのようにして形成されてきたのか。聖書との関係はどうなのか。判断の材料は、ただ判断者の内面にのみあるべきなのだろうか。

日本聖書神学校・神学基礎講座「キリスト教と現代」10月15日、金子啓一さんの講義においては、キリスト教倫理の指標として「下からの視点」さらに、複合差別を考慮した「複合的な下からの視点」が提案された。下からの視点とは、たとえば、ナチス政権下のユダヤ人の視点、父権社会において差別される女性の視点、障害者の視点、在日韓国・朝鮮人の視点である。そして、これらの人々への差別は互いに交差するものであり、ある視点からの被差別者が別の視点からの差別者であり得る状況を考慮したのが「複合的な下からの視点」である。

金子さんが示したこの倫理のための指標は、聖書を判断する私の道具として非常に有益であると思われる。第一に、金子さんの指摘のように、聖書の視点がこの「下からの視点」の要素を備えているという点である。第二に、「複合的な下からの視点」は、ある「下からの視点」を聖域とせずに、互いの批判として機能しうる点である。第三に「下からの視点」は、「いと高き神の視点」である「上からの視点」とは異なり、私たちに経験可能な視点であり、それゆえに、旧約預言者の視点やイエスの視点を、私たちが共有するための有効な道具になりうる。

言い換えれば、上からの視点で認めうる視点があるとすれば、「あらゆる人間は神の前に無条件に肯定されている」という視点であり、それは、「あらゆる人は抑圧されてはならない」という「下からの視点」と対をなすがゆえに、認識可能であると考える。神認識の作業において、唯一、普遍的な真理があるとすれば、それは、自己に無批判な人間が自己正当化のために神に無批判に与えうる万能性にではなく、自分と他者が何物に対しても持つ不可侵性=聖性ではなかろうか。たしかさの出発点は、ここにいる人間が生きていて、そのいのちを奪うことができない、という経験的事実ではなかろうか。

判断は、このような聖書の外にあるもの、しかし、聖書と共振しあうものにおきたい。聖書外におく判断は主観ではあるが、「複合的な下からの視点」として、二重三重の批判的視点でありうるものであり、これこそ、生きた視点であり、いのちを徹底的に肯定する視点であると考える。

牧会の脈絡においては、牧者は、絶対的な真理を語ることを期待されがちである。しかし、牧会者は、「複合的な下からの視点」から、また、聖書学からの学びから、他文化・他の伝統のキリスト教との出会いから、「絶対」「真理」の危険をも経験している。キリスト教の中の文化的なもの、たとえば、礼拝形式などは、相対化されてしかるべきであるが、相対的なものであるからこそ、また別の美しい形への創造を得ることに開かれているのであろう。

聖書が私にとって甘美なものであることと、ディズニーランドでの一日が楽しいのとどこが同じで、どこが違うのだろうか。ディズニーランドの一日は楽しいが、それは、園外から見れば、園内の人は世界に様々ある楽しい遊園地の一つに遊んでいるに過ぎない。園内の人もそこを一歩出た時はこの意識を共有する。しかし、園内ではその意識から自由になり、そこに展開する物語を共有し、自らの物語として主役を演じるのである。ただし、残念なことに、ミッキーマウスやドナルドと過ごした平和な時が、世界平和構築の基本的な経験になることは実際的にあまりないように思う。キリスト教会にもそのような傾向が強くあるが、それにもかかわらず、福音物語、新旧約を貫く「神の国」に身をおいたものは、その外の世界にもそれを持ち込み、しかも、他の文化を斥けず、他の文化と交わりながら、世界平和構築に参与することが可能なのではなかろうか。

「いのちの神」(G.グティエレス)の訳者後書きにおいて、私は、「解放の神学」は、いや、「解放の神学」こそ、最良の意味でのファンダメンタリズムであり正典主義である、という思いを述べた。言うまでもなく、このことで、贖罪信仰や摂理信仰を中心にし、聖書の他の伝統を無視あるいは周縁化した神学を意味したのではない。伝えたいことは、聖書には多様な文化背景を持つ多様なストーリーが存在すること、しかし、同時に、旧新約聖書をつらぬく「いのちの神」あるいは「『下からの視点』からの神」の物語があり、それを、教理に還元してしまわずに原物語として大切に生きようということである。

本田哲郎神父は、キリスト教徒になることと、イエスの福音に従うことを同一視しない。仏教徒のままで福音に従うことができるという。21世紀の神学と聖書読者の生き方は、20世紀のこの遺産を引き継ぐものでありたいと思う。

以上