24 「死ぬまで修正しつづけられる」

イエス・キリストの履歴書」 岩島忠彦

 カトリック神学者だけれども非常に自由な聖書解釈をする宮本久雄さんが書評でこの本をほめていたので、わたしも読んでみました。著者の岩島さんは、書評の論者とは反対に、あくまでカトリックの信仰の伝統に忠実に、聖書やイエスキリスト教の教義を説いています。けれども、その中にいくつも新鮮なことがありました。

 「人が世界と関わって生きることを通して、神に向かう。さらに神は世界の事象を通してこの人に語りかけ働きかけられる。・・・・・私はこれを、『三項関係』(神−世界−人間)と呼んでいる」(p.33)。

 旧約やイエスの言葉からは「神−隣人−人間」と思い浮かびますが、隣人を含む、いや隣人を中心とする「世界」、と理解できると思います。

 「生前のイエスは神の霊と力に満ちたユニークな存在であり、通常の事実史的描写をもってはイエスの深みと肝要な側面を伝えることはできない」(p.44)。

 近代の文献学的な研究から、福音書は、イエスという歴史上の人間、一人物の言動の事実をそのまま記したものではなく、イエスを神の子と信じる信仰の立場から脚色したものであることが明らかになってきたのですが、岩島さんは、イエスの言動、イエスの存在に伴う神のリアリティは、このような福音書の書き方でなければ伝わらない、と述べています。史的イエス研究に馴染んだ者には、事実をそのまま書いたものの方が価値があり、真実だと思いがちですが、福音書のような書き方でなければ伝わらなかったイエスのリアリティはたしかにあると思いました。

 「求道から使命へ。これがナザレ出奔から福音宣教開始との間にイエスの身に起こった変革ではないかと思う。・・・自分が道を究めるということは、この神とその救いの力を他の人々にもたらすという使命を遂行すること以外にないとはっきり認識したのだろう」(p.69)。

 わたしなども何かを求めて、こうやってこの本なども読むのですが、そこから一歩、他者へと、出て行かければならないと思いました。本を読みつづけますが、人と関わることを優先させたいと思います。人との交わりもまた、結果的に自分の求道、読書になるとは思いますが、出発は、その人の中に喜びが起きて欲しい、ということではないでしょうか。

 「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た」(ルカ10:18)について、岩島さんは「イエスはここで、神からの使命を受け直したと考えるべきであろう。彼の使命は積極的な活動(action)であるより、悪の力を無力の中で担う(世の罪を担う)ことが、神の与えた使命である――それは自分から何かをすることよりも、何かを受けること(passion)であると知り、受け身の業であると考えるようになったのではないだろうか」(p.153)。

 たしかに、信仰者にはactiveな季節とpassiveな季節、信仰には行動的な面と受動的な面があると思います。また、passiveへの転換は、加齢にも関わる問題でしょう。死をどう受けるかという課題は、生まれた時からつきまとってはいますが、加齢とともに意識の中でもはっきりしてきます。

 「ゲッセマネにおいて、イエスは、その精神の苦しみを極限に至るまで味わった。・・・・体への攻撃から始まって、イエスの全存在が破壊されていったのである」(p.174)。

 「体は拘束されても、精神は自由である」とは「人間を知らない哲学者の繰り言である」(同)と岩島さんは言います。キリスト教に対しても、精神的な苦痛がなくなることを期待してしまうことがあります。けれども、イエスは精神を破壊される苦しみを受けたのです。

 「問題とされた異端説も、教会内の者が真摯に信仰解釈に努めた結果であるということを忘れてはならない」(p.212)。

 公式に異端説とされたものだけでなく、教会の主流にならなかった様々な意見・思考についても、あてはまることでしょう。

 「私は、父・子・聖霊を、『隠れたる神』『見える神』『生かす神』と常々呼んでいる」(p.230)。「父は『源(アルケー)なしの源』と呼ばれ、三位一体の神の第一のペルソナである。しかし、私たちに最も近く、私たちが直接に触れ、口をつけて飲むことができるのは聖霊なのである。霊において私たちは神に触れるのである」(p.230-231)。

 これは見事な表現だと思います。「箴言5:15 あなた自身の井戸から水を汲み/あなた自身の泉から湧く水を飲め」「ヨハネ4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」などが思い出されます。

 「人は生きている限り、最後まで自己形成を続ける。死の瞬間まで、その人の全体像は定まらない」(p.245)。「生きている限り、自己の形は予備的であり修正可能である。死を持って、私たちのいのちは最終的に確定するのである」(p.244)。

 わたしたちは今どんなに弱く、あるいは、苦しく、あるいは、罪深くあっても、これは最終形ではないということでしょう。死の瞬間をどういうふうに迎えるか、それまでの道のりをどう歩むか、それによって、わたしたちはまだまだ修正されていくのです。けれども、これは死を合格点で迎えなければ地獄に落ちるということではないでしょう。

 「人の本来の行き場は天国しかない。だから天国と地獄に行く人が、半々といったことは想像しがたい。あるいは地獄にはほとんど誰もいないのかもしれない。しかしこれも、人間の自由と実存が有している極端な可能性として考えられるということだろう。自己の可能性として、この世を生きる上での戒めとすべきであろう」(p.252)。

 わたしは、天国に行くために神が出す条件があるとすると誰もクリアできないので、すべての人が無条件に救われると信じていますが、岩島さんのこの考えにはハッとさせられました。

 彼も皆天国に行くだろうと言っています。しかし、戒めとして、地獄行きの可能性も思うべきだというのです。これは「地獄に行くのが怖い」「行きたくない」という恐怖ではなく、「天国に招かれているのだから、地獄に行かない生き方をしよう」という、あくまでも戒め、しかも、人から言われるのではなく、自戒として、信仰の重要な一部を形成しうると思いました。