23 「思い出に生きる人、まだ待っている人」

「ノアの子」 エリック=エマニュエル・シュミット

 カトリックの神父がユダヤ人の子どもたちをナチスの手から守り抜こうとします。神父は子どもたちがユダヤ人であることをまわりに知られないように、教会のミサに連れて行くなどしますが、それと並行して、ひそかにユダヤ人の伝統を身につけさせようとします。

 やがて、ナチスから解放され、子どもたちはユダヤ人の親のもとに帰ります。そのひとりは、その後も、神父をたびたび訪ね、キリスト教徒になりたいと訴えもしますが、神父はそれを許しません。

 この子どもは、「お父さま」つまり神父の宗教であるキリスト教には入信できず、ユダヤ人の「お父さん」の宗教であるユダヤ教にもあまり熱心ではありませんでした。けれども、物語の最後の場面は、彼が「お父さま」と「お父さん」の双方の後継者になったことを示しているようにも思いました。

 神父が子どもに語った言葉に印象的なものがあります。「ほんとうのことしか信じないとしたら、信じられるものなんていくらもないさ。・・・・『尊敬』の対象になるのはね、『証明されたもの』じゃなくて、『提案されたもの』なんだよ」(p.96-97)。

 これは、「ユダヤ教キリスト教のどちらがほんとうか知りたがる」(p.96)子どもに向けられた言葉です。「答えはどちらでもないんだよ。宗教にほんとうもうそもない」。

 しかし、「信じる」ことについての神父の言葉は、キリスト教の文書であるヘブライ人への手紙11章に由来するのかも知れません。この箇所はつづいてユダヤ人の太古の祖先たちの信仰に触れていることにも意味があるのかも知れません。キリスト教ユダヤ教はどのような関係があるのでしょうか。

 イエスを救世主と信じるか、別の人を待つか、という両宗教の違いについて触れた後、子どもが言います。「じゃあ、キリスト教徒にとっては『もう終わって』いて、ユダヤ教徒にとっては『そのうち起こる』ってことなんだね」(p.125)。(『もう終わって』は原著では『もう成就して』というニュアンスであるかも知れないと思いましたが、調べていません。)

 神父は答えます。「そのとおりだ、ジョゼフ。キリスト教徒は『思い出に生きる人』で、ユダヤ教徒は『まだ待っている人』なんだ」(同)。

 『思い出に生きる人』という表現はしっくりきませんが、キリスト教徒の根底が二千年前のメシアであるのに対し、ユダヤ教徒のそれは将来必ず来るメシアであるということなのではないでしょうか。キリスト教徒は過去を、ユダヤ教徒は未来を土台にしているのです。もちろん、キリスト教にも終末の考えはありますが、これもユダヤ教からの大きな遺産のひとつです。「まだ待っている人」、そういう人にキリスト教徒もなりたいものです。

 もうひとつ。「ユダヤ教は『尊敬』を強調するんだ。キリスト教が説くのは『愛』だね。でも、思うんだが、尊敬のほうが愛よりも深いんじゃないだろうか」(p.127)。

 旧約、新約のどちらかに限定せず、聖書で「愛する」とあれば、それは「大切にする」ことを意味する、と聞いたことがあります。

 好きにはなれなくても、大切にすることはできる、とよく言われます。「愛する」という言葉でもよいと思いますが、それは「手に入れたい」「所有したい」「好かれたい」という意味ではなく、相手を大事にする、という意味であるべきだと思います。