「一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教」(内田樹・中田考著、集英社新書、2014年)
内田さんはユダヤ教に、中田さんはイスラム教に通じていて、そして、ふたりは、キリスト教系大学の元教授。対談だから読みやすいです。
三つの宗教の比較と言うよりは、それぞれに触れながら、イスラームの国境を失くし、イスラーム全体を治めるカリフ制を復活させた方が、健全なグローバリゼーション、つまり、国の隔てを越えたとてもゆたかな共同体になりますよ、というお話です。
中田さんによれば、イスラーム諸国の国境がなくなり、カリフ制が実現したら、イスラーム世界では、人やお金やモノが自由に移動できるようになり、貧富格差が改善され、全体的に豊かになる、と言うことです。また、イスラームではない世界も、イスラームの健全なグローバリゼーションに刺激されて、現在の不正なそれにブレーキがかかる、とも言います。
それを受けて内田さんも、中田さんの唱えるカリフ制イスラーム共同体は、アメリカによるグローバル化と違って、弱者を支え、扶養することを優先させるものであり、根底には、飢えている人、傷ついている人、血を流している人への手当、という発想があると述べます。
そもそも、イスラームはわかちあいの社会であり、水なども自分一人で飲むのではなく、一緒にいる人、たとえば、タクシー運転手さんが乗客にどうぞ、と勧めるのが、当たり前だそうです。過酷な気候条件では、そうしあわないと生きていけないのです。
ところで、内田さんは、ユダヤ教は聖典を汲めども汲めども汲み尽くせない泉として、絶えず解釈し続ける、絶えず聖典と向かい合い続ける、とにかく聖典を大事にすると言い、中田さんも、クルアーン(コーラン)に対するイスラーム教徒の姿勢も同様であるとしています。しかし、キリスト教は、「聖書のみ」というプロテスタントでさえ、教会や牧師が聖化されてしまう、と続けます。
また、中田さんは、一神教でもキリスト教は人間中心的であると言い、内田さんは、ユダヤ教では、神と人間の間には無限の距離があると言います。(キリスト教でも、バルトなど、神と人間の隔絶を言いますが・・・)
しかし、人間同士がわかちあうこと、聖典をとにかく大事にすること、神との無限の距離、そこにどのような関係があるのかは、本著では述べられていません。
他の人間も、聖典も、神も、人間にはどこまでも把握できない他者であるから、他の人間を呑み込まず、むしろ、客として失礼のないようにもてなそうとし、国境のような人間が決めた枠で囲んでしまわず、聖典はどこまでも、理解できた、この意味だとは決めつけず、神はどこまでも追いつけない、ただ背中を追うことで、こちらを前に進ませてくださるお方だ、と言うことでしょうか。