85 「キリスト教的な考えの、近代を忍ぶ姿」

「やっぱりふしぎなキリスト教」(大澤真幸他、左右社、2012年)

 何がフシギなのでしょうか。キリスト教など重要視していないように見える近代社会にこそ、じつは、非常にキリスト教的なものがある。だからキリスト教はフシギだ、と大澤さんは言います。

 これについてもう少し展開しますと、共著者の橋爪大三郎さんによれば、ホッブズは、人権など人間が生まれながらに持つと言われる自然権は、神が人間に与えたのだから、他の人間が奪ってはいけないと考えていました。つまり、人間が生まれながらに持っている権利という近代的な言い方は、じつは、神が人間に与えた権利というキリスト教的考えを根に持っているということでしょう。

 つづいて、大澤さんによれば、ジョン・ロックは、自然権は神が与えてくれたのだから、奪われれば抵抗する権利があると考えていたそうです。

 本書では、おもに大澤さんが、このような観点から、キリスト教と近代の関係がフシギだと言うのですが、橋爪さんも、やや違う角度からこの関係のフシギさを述べています。キリスト教文明が近代化に成功したのは、聖書やキリスト教の考えがあまり合理的でなかったから、かえって、キリスト教徒は合理的に考えることができたのではないか、という逆説です。

 それを側面支持するかのように、キリスト教徒であり一流の新約学者である大貫隆さんは、神が自然現象をそのようにあらしめているという考えのうち、「神が」だけを近代によって消されることで、現象についての研究が発展した、と言います。神がそうさせているからこそ、自然は不規則ではなく整った動きをし、合理的な法則が働いている、ということになるのですが、自然科学は、法則の前提である神だけを横において、法則を研究することで進歩したということでしょうか。

 作家の高橋源一郎さんは、神の子イエスが地上に来たら人間にあわせて人間になったように(受肉)、どこに行ってもそこにあわせてそこに宿ることができるキリスト教的遺伝子が資本主義のなかに受け継がれていると言います。

 これは大澤さんと橋爪さんによる「ふしぎなキリスト教」(講談社現代新書)の続編ですが、何がフシギなのかがより鮮明になったかも知れません。大貫さんの加入で、聖書についての話が少し引き締まったように思いました。