免職より創造的な対話を

日本基督教団の「教規」の「第6章 信徒」の項を読めば、たしかに「洗礼を受けた者だけが聖餐式に参加できる」という解釈は不可能ではないでしょう。また、キリスト教の歴史において、洗礼を受けてから聖餐に招かれる、という考えが主流であったことも、この解釈を助けるでしょう。

けれども、それだからと言って、洗礼を受けていない方と聖餐式のパンとぶどう飲料をわかちあう牧師に退任勧告を出したり、免職にしたりする必要はないのです。いやそんなことは、聖書やイエスのメッセージにそぐわないでしょう。

この牧師に問題を感じる人は、この牧師と粘り強い対話をすべきです。この牧師の訴えを良く聞き、また、自分たちの意見もよく語り、話がかみあわなくても、双方が合意できるような、あるいはおりあえるような道がすぐには見つからなくても、粘り強い対話を続けるべきです。

相手を変えるにも、自分が変わるにも、対話から何かが生まれるにも、長い時間と根気強い構えが必要です。

そして、そこから、聖書やイエスについて、神についての新しい理解、これまで気付かなかった理解が生まれ、キリスト教がさらにゆたかになる可能性もあるでしょう。洗礼から聖餐へ、という流れを守る人にとっても、その意味が深まったり、あらたになったりするでしょう。

かりに「教規」違反だとしても、誰かを傷つけているわけでもありません。洗礼を受けていない人が聖餐式に参加しているのをみると、自分の信仰が傷つけられるという人もいるでしょうが、聖餐問題に限らず、幼児洗礼や小児陪餐でも同じことが言えてしまいます。

処罰するよりも、対話を続ける方が、新しく提起された聖餐に賛成の人にも反対の人にとっても、ゆたかな信仰的、神学的実りがあると思います。

個々の教会の合同としての教団が入るスペースは、教憲教規墨守以前に、聖書の精神やキリスト教の多様な歴史が示してきたことがらにあるのではないでしょうか。たとえば、聖書が示す唯一の神を何らかの意味で信頼し、何らかの方法や観点から聖書は自分にとって根本的な神のメッセージであるとし、何らかの意味でイエスは自分のキリストである、というような公約数にです。

複数の神々の主権を説いたり、聖書に軸足を置かずに他の書物を中心に位置付けたり、イエスは自分にとっていかなる意味でもキリストではない、と公言するようなことがないかぎり、その牧師やその教会はキリスト教の枠内に、あるいは、日本基督教団の枠内に位置付けられる余地は十分あると思うのです。