16 「無き者とされた人からの呼びかけ」

ヘブライ的脱在論 アウシュヴィッツから他者との共生へ」 宮本久雄

 意味不明のタイトルだ。ヘンタイだ。「今の自分の立場、持ち物に固執しない。つねにあたらしくなる。違う姿になる。違う者と和して同ぜずに生きる」と誤訳しておこう。

 ぼくたちは「ぼく」という枠組みを捨てることができない。知識を増やしたり、技術を身につけたり、経験を重ねたり、考えや思いを積み上げたり、変わりはするが、いくつになっても、「ぼくは」「ぼくは」と言い続ける。

どこまでも「ぼく」にこだわり続ける。今の立場から多くの利益を得ているなら、それにしがみつく。「ぼく」を守るために、「ぼく」を大きくしようと、他の人の持ち物も、他の人自身も「ぼく」の持ち物にしてしまう。そうならなければ、壊したり、殺したりする。「ぼく」はひとりとはかぎらない。アウシュビッツも、経済と技術と官僚機構が一体になって支配する現代社会の暴虐も、「ぼくたち」のなすことだ。

ところが、聖書の神はヘンタイだ。この神は「ぼく」であろうとせずに、「あなた」になろうとする。「ぼく」であることをつねに脱ぎ捨て、「あなた」になっちゃおうとするのだ。新共同訳では「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト記3:14)。岩波の木幡藤子・山我哲雄訳では「わたしはなる、わたしがなるものに」。これを宮本久雄さんは「わたしは脱在するところの脱在」(p.20)などと言うから難しい。もっとも、すぐに「わたしは在らんとして在るだろう」と言い換えてくださっているけれども。

ヨオは「わたしは今の姿にこだわらないで、今と違う者になる」ということだろう。そして、それは、たんに今と違う未来の姿というだけでなく、今自分とは違う姿を持つ他の人に歩み寄っていく、その人に同化はしないが、他の人を異なるモノとして排除したり、自分に同化・吸収・支配・抹殺したりするのではなく、「和して」生きる者の姿ということを含む。

いちど今と違う者になってしまえばそれでおしまいということではない。「ぼく」が「あなた」になったつもりでも、その「あなた」はふたたび「ぼく」になってしまうから、つねに今と違う者に「わたしはなる」、これが聖書の神さまであり、この神のパワーがぼくたちを巻き込もうとしていることだ。

エスもおんなじだ。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2:6-7)。キリストは神という「ぼく」にこだわらず、「自分を無にして」、「僕の身分」や「人間と同じ者」、つまり、「あなた」になったという。

自発的にそうなったということだけでない。イエスは、発言や行動、感性、交わりをことごとくを否定され、十字架につけられ、殺された。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。わけわかんない。どうしておれがしななきゃならないんだ。死の意味さえ、自身の死さえ奪われたのだ。無き者とされた。アウシュヴィッツだ。

 ぼくたちは「ぼく」から「あなた」になるのか。「自分を無に」するのか。その糸口は、無き者とされた人からの呼びかけにピクッと反応するかどうかだ。