13 「読みの降臨」


「イエスの父はいつ死んだか」 佐藤研

先日のサッカー決勝戦、延長戦でアメリカに一点リードされた時は、「二点、降臨させてください」とFacebookに書き込んでやろう!、という衝動に駆られました。自分や人間の力では、もはやどうしようもなくて、何かが降りてくるのを待つしかない、そういう時があります。

さて、これは新約聖書学者、佐藤研さんの講演・論文集ですが、講演が中心で、論文も難解な学術論文ではないので、読みやすいと思います。新約聖書福音書はどのようにして書かれたのか、また、イエスはどんなメッセージを発していたのか、わたしたちは聖書をどのように読むことができるか、というようなことを、キリスト教会の教えとしてというよりは、教養として学びたい人には手ごろな一冊だと思います。

佐藤さんはまず、「客観的なだけのイエス像などは存在し得ない」、「客観性を越えて主体的にイエスを描いた研究者の数だけイエス像がある」(p.15)ということを確認した上で、新約聖書自体もまた、ナザレ出身のイエスという人を巡る一連の出来事に対する「様々な解釈学的『応答』」の集積」(p.17)だと言います。

つまり、新約聖書を学問的に研究する人たちは、新約聖書という、量的質的に非常に限られた資料の中から、(新約聖書各巻の著者による脚色を取り除いた)歴史上のイエスはどんな考えや行動や発言をしたかを研究しますが、それをもとにイエスの人物像を描く際には、自分の思いをそこに込めざるを得ない、というのです。また、新約聖書各巻の著者たちも、すでに、イエスについての言い伝えなどをもとに、イエスはどのような存在なのかという、その人の解釈を記している、というのです。

ところで、新約聖書は四つの福音書から始まりますし、パウロの書簡などは福音書に記されたイエス・キリストについての解釈のようにも見えますので、まず福音書が書かれ、つぎに書簡が、と思いがちですが、じつは、パウロ書簡の方が時代が古く、福音書はその後に書かれています。

それは、たとえば、コリントの信徒への手紙一15章でイエスについて触れられていますが、そこには、死んだことと復活したことしか書かれておらず、パウロのイエスについての解釈全般も、イエスの死と復活に基づくものであり、イエスの言動にはほとんど言及していません。

それに対して、最初の福音書マルコは、「『いかに』イエスが生きて殺されていったか」(p.27)を克明に描くことで、「福音」の視点を拡大しようとしている、と佐藤さんは述べています。すなわち、パウロはイエスの死と復活から「福音」とは何かを説いているが、マルコはイエスによる「病からのいやしも、差別からのいやしも、裏切りからのいやしも、全部ひっくるめて」(p.174)「福音」と呼ぼうとした、そのために、イエスの死と復活だけでなく、生きて、語ったこと、なしたことも克明に描いた、というのです。ただし、そこには、イエスについての客観的なことがらだけでなく、マルコの解釈も織り込まれます。

それでも、パウロ書簡だけからはイエスの人物像を描くことなどとうてい不可能であり、福音書の存在によって、それがなんとか可能になります。研究者たちは、各福音書を資料とし、福音書を書いた人による脚色を除く努力をして、イエス像を再構成しようとするのです。

そうした作業を通して、佐藤さんが浮かび上がらせてきたことがらのひとつは、「イエスが見ていた神というのは、実存的な次元の罪性、つまり神の愛に照らされれば照らされるほど自分の中に見えてくる影の部分をも、無条件にゆるし、受容する神である」(p.135)ということです。

また、「神の支配」(新共同訳聖書では「神の国」)については、「人間の自己壊滅とそれからの回復あるいは新生がいちばん根幹にあります。人間の自己壊滅というのは、病でも自己壊滅しますし、差別されたどん底でも自己崩壊します。また人を裏切った追い目でも自己崩壊します。そこからいかに回復させられるかということです。回復させ、生かし直す力が「神の支配」です」(p.173)という見解も持っておられます。

さいごの章で、佐藤さんは聖書の読み方を三通りあげています。まずは、聖書を知的な対象として読む方法です。これには、歴史的背景、語の意味など、聖書学の成果が必要だと言います。つぎに、「実存的対話の相手として」(p.243)の聖書の読み方が挙げられています。これは、自分の心に響いてくるような読み方です。イエスや神の言葉が自分に向けられていて、それが今の自分にあてはまる、というような読み方です。

三番目に、「新しい世界を開示する主体」(p.247)としての聖書の読み方です。これは、「ある箇所が逆にこちら側に降ってくる、こちら側を訪ねてくる、場合によっては襲ってくる」(p.249)、そういう読み方です。

毎週、説教を用意する時、当然、とりあえずは最初の読み方をし、そこから、今の自分や聴き手の心に響くメッセージを聞きとろうとしますが、これがなかなか難しいです。なんとか聞きとったつもりでも、それはどこかで聞いたことのある、通り一遍のもの場合が多いのです。

なんとか、この聖書の箇所から、あたらしいこと、あたらしい気づきを受け取りたい、そして、あたらしい世界を見たいと願うのですが、これは、まさに降臨してくるのを待つしかないのです。(降臨がなければ、降臨がないなりの説教をするしかありません。)

ただし、第一の読み、第二の読みとのなめらかな連続性はないものの、やはり、第一、第二を一度済ませてから、それを捨てるというような手順が必要なように思えてなりません。