12 「九条グランパたち」

「日本語教室」 井上ひさし

 井上ひさしさんが死んで一年余り、未完のものも含まれるいくつかの小説、それから、インタビューや講演を起こしたものの出版が続きます。この本は上智大学での十年前の連続講演を文字にしています。

 「が」と「は」の違い、音節数の少なさ、それゆえの駄洒落の多さなど 日本語をめぐるさまざまな問題が挙げられていますが、日本語の起源については、どこまで本気だか、少なくともご本人としてはあたらずとも遠からずということだと思いますが、おおむね次のようなことを述べています。

 原縄文語は東北弁であった。出雲や沖縄にもアクセントのないズーズー弁が残っている。さて、中国から技術をもった人々がやってくる。中国語には四声がある。この人たちは原縄文語を土台にしつつ、そこにアクセントを導入し、今の関西弁のような言葉を築いていった。

 ほんま かいな。

鶴見俊輔 いつも新しい思想」(KAWADE 道の手帖)

 ぼくは鶴見俊輔さんの主著は何ひとつ読んでいません。(この本の中の巻末にある著作一覧からいくつかをAmazonの「ほしいものリスト」に載せました。)この本は、鶴見さんの対談や自選アンソロジー、そして、鶴見さんをめぐるさまざまな論者のエッセーが収録されています。

 自選アンソロジーの一編「退行計画」の中に「思いちがいを恐れずに、毎日新しく思いちがいを世界にこじいれてゆく他ない」「真理は、方向としてしか、わたしにはあたえられない」「思いちがいのなかで、思いちがいをすてることでその方角を向いて死ぬ以外に、何ができよう」とありました。

 また、鈴木泉さんという人が鶴見さんの主著のひとつ「アメリカ哲学」の解題において、「絶対的な正義への不信」「客観的な真理の把握とその基礎づけを目指す伝統的な哲学を否定」というようなことを書いています。

 これは、聖書を読んだり、キリスト教の歴史を学んだりする時の態度と通じると思いました。聖書の時代背景、言語、単語などハード的な面でも、一般的解釈、宗教の枠組みからの解釈(というより連想)などのソフト面でも、わたしたちは「思いちがい」を重ねていることを自覚しつつ、その積み重ねが、あるいは何かの方向をたどっているかも、という希望を持ちたいと思います。

 また、キリスト教史上の出来事や議論なども、「思いちがい」の森であることを自覚し、その木がたとえ良質であろうと(悪質の「思いちがい」もあるようです・・・)、絶対化せずに、切り倒し続けたいと思います。できれば、ある向きに切り倒し続けたいのですが、その方向が、「方向としてしか」であっても「真理」と何か関係がある、などとは今のぼくにはとうてい言えませんが。