[キリスト教批評](8) いやし

 苦しくて仕方がありませんが、どうしたらいいのか教えてください。お会いしたことのない方から電話でこのような相談を受けました。心の病気だということでした。臨床心理学の初歩をかじり、生半可に身に付けた方法、というより、たんなる癖ですが、こういうときは、どうしたらよいか、あれこれ方法を考えて答えるのではなく、「それは本当に苦しいですね」というような言葉を返しながら、相手の苦しみを受けとめよう、いや、苦しみを受け止めてもらったと相手に感じてもらおうとしています。

 けれども、この相手は、どうしたらいいのか方法を教えて欲しいと、さらに何度も問いかけてきました。苦しい気持ちをわかってほしいということよりも、今すぐにこの苦しみから抜け出したいということの方が大きいのかも知れません。キリスト教では、というより、わたしはどうしたらいいのか、その方法はわかりません、ただ、苦しむ私たちを神さまが支えてくださることをことを信じています、と答えると、そうですか、けっきょく、どうしたらいいという方法はないのですね、という言葉で電話は終わりました。

 じつは、その二、三日前も、やはり面識のない方で、心の病で苦しんでいる方からお電話をいただきました。その方はもう何十年も統合失調症をわずらっておられ、家族からは疎んじられ、友だちも一人もいなくて苦しんでおられるのですが、病院で治療も受け、心理学、宗教、哲学などの本もいろいろ読み、キリスト教会にも行ってみたとのことでした。

 この方も、どうしたらいいですか、という訴えでしたが、以前に行った教会では、熱心に祈れば聖霊が降りてきて心理的に平安になるとか、教会に通い続ければきっと救われるとか言われてきたそうです。けれども、必死でそうしてみてもそのようにならなかった、どうしたらよいですか、ということでした。

 お祈りをして心が安らかにならなくても、それは、あなたのお祈りが足りないとか、神さまに届いていないとかいうようなことではありません、信仰を強く持てば病気が治るというような教えはかえって病気の方を苦しめますねと、この方には申し上げました。この方は本をいくつも読んでおられることかもうかがえるように、ものごとを冷静に見る面も持っておられるようで、わたしの言葉に同意してくださいました。

 けれども、その苦しみは本当に深いもので、全生活に広がっていて、やはり、何とか楽になる方法を見つけたいという気持ちも強くもっておられたと思います。わたしは、この時も、どうしたら苦しみから逃れるかという方法はわからない、けれども、神さまが苦しみの道をともに歩んでくださることを信じたい、と伝えました。この方は、やはりそれしかないのですね、と言われました。わたしが、今この場で電話を通して祈らせてください、というと、その方は受け入れてくださり、祈りを終えて、受話器を置きました。

 聖書にはイエスや弟子たちが病気をいやしたという話がいくつか出てきます。この話をわたしたちはどのように受け取ったらよいのでしょうか。キリスト教会によっては、そのようなイエスのいやしのわざが今も起きるとし、牧師などがいやし行為をしているところがあるようです。また、さきほどふれたように、信仰を強く持てば病気が治る、という教会もあるようです。

 イエスは、あるいは、神は今の時代も病気をなおしてくれるのか、そもそも、聖書に書かれているようなことがその時代に起こったのか、その答えは一つではなく、さまざまだと思います。相手によって、状況によって、答え方、語り方はいろいろありうると思います。

 イエスは病人をじっさいに癒したのでしょうか。遠藤周作は、イエスは無力で病気を癒すことができなかった、けれども、誰からも見捨てられた病人に徹底的に寄り添った、そのことが奇蹟なのだ、と述べました。わたしもこの考え方に共感したことがありましたが、そういう人はかなりいたのではないでしょうか。

 しかし、遠藤周作の描くイエスは弱すぎるという批判も出てきました。また、イエスの時代、現在の医学からみれば医学的、科学的には思えない方法で病人を癒そうとしていた者はイエス以外にも大勢いて、病気になればそのような人に頼り、そうすれば治る(こともある)と信じられていた世界では、わたしたちには奇蹟的に思えるような癒しも今よりは頻繁に起こっていたかも知れません。しかし、百発百中というわけにはいかなかったでしょう。現にイエスも病人を癒せなかったこともあるようです(その記事では「故郷では」という要因が述べられていますが)。

 ですから、イエスが病人を癒したという聖書の記事は、文字通りの事実とも言えないが、まったくのフィクションとも言えないでしょう。また、マルコならマルコが、マタイならマタイが、イエスによる病人の癒しの記事を自分の福音書に載せる時、ただそのような出来事があったから報告したのか、あるいは、そのような事実に驚嘆したからか、イエスが神の子であることや神の国がイエスとともに来ていることの証拠としてか、読者にもイエスが病気を治してくれると伝えるためか、そのような意図があると思われます。そして、その意図によって、言い伝えられていた口頭伝承を脚色したり編集したりして文字にしたとも考えられます。

 けれども、わたしはそのようなこともあると踏まえたうえで、つまり、イエスによる病人の癒しの記事を単純にはうのみにせず、いろいろな可能性を考えて、ぐるっとひとまわりした上で、そのような癒しの出来事があったと「想定」して、この出来事、あるいは、この物語を今読むわたしたちにもたらすメッセージが何か考えればよいと思います。

 「イエスが病人を癒した」という記事をそのままに受け取って読むとしても、わたしたちがそこから受け取るメッセージは、イエスはわたしたちの病気も治してくれる、ということだけではないでしょう。わたしたちはここから、病気だけに限らず、変わらないように思える何かが変わっていくという希望や、イエスが苦しみの中にあるわたしたちにともなってくれるという信頼や、病気に象徴されているが病気以上にわたしたちにとってもっと根本的な問題、わたしたちの存在そのものにかかわる問題においてイエスはわたしたちを支えてくれる、そのようなメッセージを受け取ることもできるのではないでしょうか。

 もちろん、イエスが病人を癒したという聖書の記事から、病人が癒されるというメッセージを受け取るべき時もあります。しかし、わたしたちの病気が癒されない場合にも、たとえば上に述べたようなメッセージが受け取れると思います。

 数か月にわたって病気と闘い、それを乗り越えようとしている小学生がいます。聖書でイエスが病気を癒してくれたことを頼みとして、この方がかならずいやされると信じたいと思います。かならず病気を克服するという希望を持って祈りたいと思います。

 ガンを乗り越えようとしている友人がいます。彼も神がかならず救ってくれると信じています。この治療によってガンから癒してくださいと切に祈り、神がそうしてくれると信頼しています。けれども、たとえそうならなくても、神が別の道で救ってくださることを、つまり、ガンが克服できなくても、それが彼の終わりでないことを、神の救いは確かであることを信じています。また、治療や病状のつらい道、ガンが克服できない場合歩まなければならない苦しい道をも神がともに歩んでくださることを信じています。イエスが病人を癒したということから、彼はそういう希望と信仰を持っているのです。

 何十年も自分の病気で、そして、十数年も家族のことで苦しんでいる方がいます。この方は問題が解決する方法、病気がなくなる方法、家族の苦しみがなくなる方法がないかとつねに思い悩んでいます。自分の信仰が浅いせいだと責めも感じています。わたしは、病気が治る、問題が消滅するということだけでなく、病気でありつつも、問題ありつつも、イエスがともに歩んできてくれたことに気付き、これからもそうであることを信じて欲しいと思いますが、それをうまく伝えることができないでいます。

 この方が求めている言葉は、「苦しみは続くがイエスがともに歩んでくれる」ではなくて、「イエスが楽にしてくれる」という言葉だと思うのです。けれども、何十年も叶わない、楽になれない時、この言葉は自分を責める言葉にもなるのです。

 イエスのいやしをどのように語るのか、わたしたちはもっと考え、その都度考えなければならないのではないでしょうか。