4 コンテキストの中でどう読み、どう行動するか


誤読ノート4 

論文 「米軍による軍事占領と沖縄キリスト者の思想形成 ――1940年代後半の仲里朝章を中心に――」(一色哲、「東ASIA宗教文化研究」創刊号(2009年)所収)

 一色さんのこの論文を読み、沖縄のキリスト教史にはラテン・アメリカや韓国のキリスト教史と非常に似た場面があったのだと思いました。ヨーロッパから持ち込まれたキリスト教のメッセージや制度をそのまま模倣するのではなく、自分たちの生きている歴史的な状況や文化、民俗などの文脈の中で解釈しなおしているのです。

わたしはラテン・アメリカの解放の神学や韓国の民衆の神学をとおして、コンテキスト(その地域や時代における人々の状態)によるテキスト(聖書)解釈と出会いましたが、一色さんの論文を通して、同じことが沖縄にも起こっていたことを学びました。おそらく、これは沖縄だけでなく、たとえば、日本のさまざまな地域でもありうることだと思いますが、その歴史がじゅうぶんに掘り起こされ、書きとめられ、知られていくにはまだかなり時間がかかることでしょう。

さて、この論文では、1940年代後半以降の沖縄キリスト教史の一断面として、仲里朝章という人を取り上げています。仲里は教師をしていましたが、軍に協力し、その結果、教え子たちが戦死しています。また、娘も戦場で亡くしています。このことを強く悔いています。

仲里はそこを原点としてキリスト教のメッセージを伝え始めますが、東京帝国大学を卒業した知識人であり、東京の富士見町教会で長年長老を務めたとはいえ、神学については専門的教育を受けたわけではありませんでした。その意味で、仲里は「信徒」であり、戦後の沖縄のキリスト教会は仲里のような人物が働く「信徒の教会」(p.69)として出発した、と一色さんは述べています。

沖縄のキリスト者の間では戦前から沖縄の言葉による「琉球讃美歌」や「方言説教」が盛んであり、また、戦後は与那城勇などのように沖縄の伝説と聖書の間に共通点を見出す試みもなされていたようです。仲里も、内村鑑三や植村直久らの伝えるキリスト教の影響を受けながらも、その学びを自らの経験や体験、信仰と照らし合わせながら、鋳造し直していったようです。一色さんはこれを「自らの民族の「物語」にキリスト教的要素を付加して新しい「物語」を創造しようとした、沖縄キリスト者なかでも傑出した思想的営為」(p.73)と評しています。

仲里は、たとえば、モーセ出エジプトピルグリムファーザーズのアメリカ入植、デンマークの開拓などと重ねつつ、琉球民族の歴史の現状と展望を述べたそうです。そこには、近代以降、日本国家に奪われた歴史を取り戻し、また、アメリカによる支配に直面し、同じ境遇にあるアジア諸国・諸地域などとの連帯や協同を模索する意味が込められていました。

そこでは、旧約の物語だけでなく、イエス・キリストが大きな役割を持っています。「朝章によると、イエス・キリストこそが、当時、沖縄や世界中の至る所に存在していた様々な次元の貧困や社会的不正義を可視化し、それぞれに呻吟する人々を架橋し、その連帯を促進していく」(p.77)と一色さんは述べています。

仲里はキリスト教を「民主主義、平民の宗教、超階級的宗教、新生の宗教、永遠の生命の宗教、超人種的宗教、世界を兄弟とする宗教」(p.85)とし、それをキリスト教を誇示するためではなく、沖縄の戦後復興を目指す一人として提唱したということです。また、沖縄の解放には「神の賜ふデモクラシー」「愛の経済、愛の政治、愛の教育、愛の協同社会/愛の文化生活、愛の家庭、愛の村、愛の市、国家」(p.85)が必要であると述べたそうです。

わたしは、解放の神学を学んだ経験から、社会の中で抑圧されている人々の解放を目指すようなキリスト教のあり方が大切だと考えてきました。けれども、社会的に抑圧されていることを自覚していなかったり、それからの解放が第一の願いでなかったりする人々(願いが意識に登っていない人々)、そして、病気や仕事、家族、人間関係などにかかわる心理的な不安や精神的な病いからの苦しみを何とかしたいと願う人々からなる教会では、そのようなコンテキストを尊重しなければならないとも思ってきました。それがその教会のコンテキストのひとつだとも思うのです。

しかし、そうしているからと言って、人々に心理的な安定を提供できているわけでもありません。仲里朝章さんのように、時代を見て、展望を描きつつ、聖書を読み、わかちあうべきキリスト教のメッセージを模索しなければならないのでしょう。

この課題は容易ではありません。以前のような「抑圧者、被抑圧者」という単純な図式化だけでは不十分でありながら、なお抑圧はたしかに存在し続けています。自己肯定感の欠如など心理臨床的な問題もあります。

 ひとつひとつの問題は挙げられても、その地域や時代の問題が何であるのか、明確に言い表すことができず、直線的な解決策も見出せない複雑な状況、つまり、何が問題で何が解決なのかさえ記述しにくい混沌というコンテキストの中で、わたしたちはどのように聖書を読み、どのように生きていくのか、粘り強く考えなくてはならないでしょう。