(9)価値を描く

 本を読んだり、話を聞いたり、文を書いたり、話をしたりするごとに、もっと頭が良ければ、と思わないではいられません。書いてあること、語られていることがわからないことが良くあります。その段落を中心に一、二頁読みなおしてみてもわからない、何度読んでもわからないのです。細かいところがわからないだけでなく、全体の把握ができていないこともしばしばです。つまり、木も見えていなければ、森も見えていないのです。書いたり、語ったりする場合も、起承転結と展開していったり、各部を掘り下げたりすることができません。言い換えますと、せっかく本を読んだり、話を聞いたりするのですから、もっと明確にわかりたい、せっかく書いたり、語ったりするのですから、もっと良い内容、詰まった内容にしたいということです。

 けれども、それをこころがけ、それなりに努力をしても望みに近づいていけないということは、頭が良くないということでしょう。一時は読字障害も疑いましたが、そうではなさそうです。けれども、軽いその傾向はあるかも知れないといまだに疑っています。それでも、絶えず読書はしていますが、著者たちはすべて頭の良い人のように思えます。外国語文献、日本語文献を数多く読み、それを理解し、まとめる力、また、それを批判したり、適用したりしながら、何かを語る力。著者たちのその力はわたしのそれの百倍は上でしょう。「フタケタ違う」というのが実感です。

 「そのままの自分を受け入れよう」「そのままのあなたで大丈夫」。さて、上のようなことを何人かに話したとしたら、きっとこういった答えも返ってくるでしょう。「そのままの自分で大丈夫」、この言葉はたしかに意味があります。どん底に落ち込んだり、疲れ果てたり、力がまったく出てこなかったりする時、この言葉にはおおいに慰められます。

 けれども、この言葉はもはや使われ過ぎて、新鮮味を失っているようにも思えます。わたしは読書や作文のことで、「そのままで大丈夫」と言われても、「いや、もっと向上したい」と思います。あるいは、読書や作文がだめだとしたら、他の面で優れていたいと思います。自分にはこれ以外のことで価値があると思えるなら、読書や作文でおとっていても、そんなに気に病まないかも知れません。

 「そのままで大丈夫」とはどういうことでしょうか。存在しているだけで、生きているだけで価値があるということでしょうか。そう言われても、生きている以上の価値を持ちたい、存在している以上の価値を見出したい時期が人生にはあるのではないでしょうか。死と直面している時期、戦っている時期、受け入れようとする時期は、たしかに生きていることに最高の価値があります。しかし、存在や生といった土台の上に何かを築きたい時期もあるのです。「そのままで大丈夫」だけでは大丈夫でなくて、「そのまま」の上にプラスする価値を求める時があって当然だと思います。

 では、読書や作文の力以外に、あるいは、運動能力、音楽や美術などの技術、知識や論理性や発想性などの学力・知力、優しさや根気強さなどの性格、これまでの実績、このようなもの以外に、そして、生きていること、存在していること以外に、わたしたちにはどのような価値があるのでしょうか。

 なかなか思い浮かばないのではないでしょうか。わたしたちは自分に価値が見出せずに悩むことがありますが、価値が見出せないのは、わたしたちがに価値がなかったり、発見する力がないからとばかりは言えないように思います。歴史において、また、社会において、今広く認知されたり納得されたりしている価値以外のさまざま価値を見出し、それをていねいに描き、承認しようとする努力をしてこなかったのではないでしょうか。

 たとえば、「自分という人間はたった一人しかいないことに価値がある」と言われて、そうかと思う人がいても、そうは思えない人もいるのは、唯一無二の存在であることの価値が世界や歴史においてまだまだ十分に考え抜かれていないし、社会的な価値として広く認知されたり納得されたりしていないからではないでしょうか。

 これまで認められてこなかった価値を見出し、その価値について多くの人が時間の中で考え、価値に磨きをかけ、社会や歴史の中でわたしたちがその価値を美しいと認める必要があると思います。

 では、聖書はどうでしょうか。健康、知恵・知識、財産、体力など、わたしたちがこれまで認めてきた価値以外にどのような価値を見出しているのでしょうか。

 「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」(創世記1:27)。人が「神にかたどって創造された」とは、人の中に、最高の価値である神に通じるような何かの価値がある、ということでしょうか。教会ではそのように語られることがあります。人種差別、性差別などに抗する聖書的根拠として引用されることもあります。けれども、その価値がどのような点で価値があるのか、深く考え抜かれていないように思います。

 「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)。ここからも、すべての人が等しく尊厳をもつというメッセージを引き出すことがありますが、どういう点が「良い」のでしょうか。

 「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ53:4-5)。

 この個所はある人の苦しみに他の人を癒すという積極的な意味を見出していますが、さきの二つの個所よりも多くの考察の対象となってきたと思います。マイナスに位置付けられやすいもの同士であっても、「苦しみ」の方が「劣等」よりも取り上げられやすいテーマなのかも知れません。

 「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。 今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」(ルカによる福音書6:20-21)。ある新約聖書学者によれば、これは、金持ちは幸せで、神の祝福を受けているという通念に対する逆説的な反抗の言葉、そのような通念を笑い飛ばす言葉だそうです。いずれにせよ、この言葉を字面通りに受け取って、「貧乏な人こそ幸せなのだ。貧乏な人こそが神さまの国に行ける」などという教義めいたことを言うべきではないでしょう。むしろ、逆説や希望の言葉として聞くべきでしょう。

 「目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(コリントの信徒への手紙一 12:21-22)。人それぞれ役割があり、誰も斥けられてはならず、しかも、弱く見える人が必要、というのは画期的な考えですが、この言葉をヒントに、人の持つあらたな価値を見出し、それを育てることができるでしょうか。

 じつは、聖書のような宗教的な言葉は、抽象的、あるいは、象徴的であることに意味があるとも考えられます。つまり、何か一つのものやことがらだけを具体的に指すのではなく、読む人の状況に応じて、さまざまな意味を湧き出してくれるような言葉であることが望ましいと思うのです。ですから、神が創造した世界、創造した人間のどういう点が良いのか、聖書そのものはあきらかにしていなくて構わないのです。

 けれども、これらの言葉に導かれて、わたしたちは自分や周りの人間の中に、あたらしい価値を見出し、それがどんなものなのか、どのように価値があるのか、ていねいに描き出していく必要があると思うのです。

 キリスト教はたしかに「そのままで大丈夫」を根本のところ、ぎりぎりのところで語らなくてはならないし、それが最大のメッセージだと思いますが、「そのまま」以上の価値を見出し、人が自分に対してより肯定的な見方をするサポートの役割も考えられるのではないでしょうか。