キリスト教批評(5) さまざまな救い

 救いとはどのようなことでしょうか。

 肉体の死とともにこの世での生は終わるが、来世において神のもとで至福な意識をいつまでも持ち続けること、いわゆる「天国に行く」ということ。苦しいことや痛むことがあっても、心が乱れることなく、いつも平安でいられるようになること。自分や家族が健康であったり、人間関係があたたかいものであったり、経済的な安定や成功を得たりすること。神さまがともにいてくれる、神さまがわたしを愛してくださると確信すること。人と人とのゆたかな交わりの中で神さまの愛を感じること。救いとは何なのかと考えてみると、さまざまなことが思い浮かんできます。

 また、救いはいつ起こるのか、と問うこともできます。この世に生まれる前からか、この世に生まれた時にか、この世で生きている間にか、この世の生を終える時か、来世でか。この場合もいろいろな考えが出てきます。

 わたしは、わたしたちは神さまからいのちを与えられたということ、つまり、わたしたちの根源は神さまにあるということ、また、わたしたちが今立っている人生という舞台の土台は神さまに支えられているということ、あるいは、わたしたちという木の枝は神さまという根に支えられていること、つまり、わたしたちの根本に神さまがおられること、このふたつの意味からは、わたしたちはこの世に生まれる前から神さまに救われているということができると思います。

 また、わたしたちが生まれた時すでに、わたしたちが生きる世界、光、空気、水、周りの人々、言語、文化など、わたしたちがこの世にもってきたのでもなく、この世で創ったのでもないのに、わたしたちのために備えられているものがある、この意味では、わたしたちはこの世に生まれた時から神さまに救われていると思います。

 あるいは、何十年か前にいのちが与えられ、今も生かされていること、今日まで生きてきた時間とその自分だけにしか経験できなかった中身がわたしたちにはあること、苦しいことや痛むことがありながらもなんとか生きてきたし、生きているし、生きていくであろうこと、人や出来事や自然、つまり、世界との出会いを通して神さまのリアリティを感じることがあること、聖書を通して神さまのわたしたちへの働きかけやイエスさまとの出会いを感じること、それが時間の流れの中でつねにあらたな形であられれ、それを人生における成長と感じること、こうした点ではわたしたちは生きている間に救われているように考えます。

 この世の生を終える時、自分の人生にうなずき、肉体の死を受け入れること、また、肉体の死後も神さまや大事な人々とのつながりが永遠に切れないことを信じること、こうしたことを、この世を終える時の救いと考えることもできるでしょう。

 そして、来世において、神さまやこの世で出会った大切な人々との、いつまでもつづく絆の中で生き続けること、これを来世の救いと呼ぶこともできるでしょう。

 救いにはさまざまな形があると思います。それは、何らかの形での神さまとのつながりを抜きにしたは語れないことでしょう。けれども、神さまの救いをひとつのことがらだけに限定して、そのための方法もひとつだけに限ってしまうことは避けたいと思います。

 救いについて、いくつかの在り方を思い浮かべてみましたが、もうひとつ述べますと、「自分は滅んでもよい」という心境も救いのひとつの在り方だと思うのです。これは、自分の弱さ、おろかさ、そして、死ぬということを受け入れることでもありますが、また、滅びる人と救われる人が区別されるなら、滅びる人もいるなら、皆が救われるのでないなら、自分も救われなくてもよい、滅んでもよい、ということでもあります。

 しかし、こう言い換えた方がもっと良いでしょう。救いとは、「自分は滅びたくない」という不安から解消されることではなく、「神さまは誰も滅ぼさない」「神さまはあの人も滅ぼさない」という確信を得ることだと。このような確信も救いのひとつのありようだと。