「信じる者は救われる」と言いますが、では、いったいどれだけ信じれば救われるのでしょうか。100%でしょうか。90%でしょうか。それともたった1%でもよいのでしょうか。じつは、このような問いは、「信じる者は救われる」という言葉をどんな時にでもあてはまる数学の公式のように考えるところから生じるものです。科学や物理の法則と同じように考えているのです。
けれども、わたしは、「信じる者は救われる」という言葉はそのようなメカニズムを備える法則ではないと思うのです。法則ではない、言いかえるとは、命題的真理(論理学的真理)ではない、ということです。では、何か。「信じる者は救われる」とは希望の言葉です。宗教的希望の言葉です。ですから、この言葉を法則や論理としては正しいと考えられなくても、希望の言葉としては受け入れられるということもできるでしょう。わたしはこれを提唱したいのです。
しかし、希望の言葉の話は後にして、ここでは、「信じる者は救われる」という言葉は法則として成り立ちにくいことをもう少し考えてみましょう。そのために聖書を開いてみることにします。端的に言って、聖書には「信じる者は救われる」的な言葉と「不信心な者が救われる」という言葉が混在しています。前者の方が圧倒的に多い中で、数少ない後者の言葉がわたしには魅力的に思えます。
さて、旧約聖書の創世記にアブラハムという人物がいます。アブラハムはユーフラテス川の支流のほとりにあるハランという町に住んでいましたが、ある時その町を一族とともに離れ、パレスチナに向かいました。それ以前に、アブラハムの父テラはユーフラテスの下流のウルという町からハランまで移動しています。アブラハム一族はそのように小さな放浪の民として描かれ、さらに、アブラハムには子どもがいないということで、滅びの危機にあります。現代的な感覚からすれば、家の継続などどうでもいいこととも言えますが、これは、小さな集団がその存在を失おうとしている憂慮すべき状況と考えてもよいでしょう。もうこの先はない、お先真っ暗、というような状況です。そのよう存在の危機において神の言葉がアブラハムに語られます。
15:5 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
15:6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(新共同訳聖書 創世記より)
「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とあります。これは「信じる者は救われる」的な言葉ということができるでしょう。そして、「信じる者は救われる」が法則として適用されていると読むこともできるでしょう。(しかし、皮肉なことに、上の引用は、「信じる者は救われる」が希望の言葉であることを示していると言うこともできるでしょう。)
ところが、同じアブラハムをめぐる言葉であっても、「信じる者は救われる」が法則として成り立ちにくいことを示す聖書の箇所もあるのです。創世記18章によりますと、神はソドムの町を滅ぼそうとします。それに対してアブラハムは、「18:23 まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。18:24 あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。18:25 正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。」と申し立て、「18:26 もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」という神の言葉を引き出します。アブラハムはさらに神との交渉を重ね、「18:28 もし、四十五人いれば滅ぼさない」、「18:29 その四十人のためにわたしはそれをしない」、「18:30 もし三十人いるならわたしはそれをしない」、「18:31 その二十人のためにわたしは滅ぼさない」、「18:32 その十人のためにわたしは滅ぼさない」というように、神は「滅ぼさない」ためのハードルを下げていくのです。
これはソドムの町の話ですが、一個人の信仰に置き換えてみるとどうなるでしょうか。ソドムの町の住民がどれだけいる中での「正しい者」「十人」なのかはわかりませんが、ディスカウントし続けるという点をなぞらえるならば、こういうことになるでしょう。神は最初100%の信仰を持つものを救うことにしていた。けれども、100%の信仰、すなわち、どんな時でも神の存在を全く疑わず、また、神を100%信頼しているというな状態はありえない。そこで、時々は神の存在を疑うこともあるし、心のどこかで神を信頼していない部分もあることを考慮してもらい、90%の信仰でも救われるという神の言葉を引き出す。同様に80%、70%・・・・・・10%。
救いを引き出すのに必要な信仰の数値が交渉次第で、いや、交渉というよりも、人間側の願いに応じて下げられるのであれば、神は救いの自動販売機としては成立しないということになります。救いを得るために代入する値である信仰の数値が一定でないなら、「信じる者は救われる」という言葉は、法則や公式としては成立していないのではないでしょうか。
聖書の箇所が全部が全部こういうことを言っているのではありません。たとえばヨハネ福音書には「3:36 御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」というような類の言葉が目立ちます。
けれども、ソドムの町についての神の言葉のように、神と人間の関係についての法則が数値によって示されないことを告げる聖書の箇所は他にもあります。次回はそれを取り上げたいと思います。ただし、わたしは、「数値」や「量」ではなく「質」だ、言おうとしているのでもありません。「質」も何らかの方法で「数値」にすることが可能なものだと思います。