「信じる者は救われる」と言います。キリスト教やその他たいていの宗教の信徒は、そのように思っていることでしょう。あるいは、そう期待しているでしょう。「救われたい」という願いがあり、そのために「信じよう」としている人が多いのではないでしょうか。宗教の外の人たちからも、宗教を信じる人々は神を信じることで救われると思っている、と見られていることでしょう。
では、「信じる」とはどういうことでしょうか。すぐに思い浮かぶことは「(神など存在が客観的に示せないものを、それにもかかわらず)存在を信じる」ということです。「UFOの存在を信じる」と同じことです。「神は本当にいると信じる」ということです。
また、「信じる」には「信頼する」「信用をおく」という意味もあります。その場合、神を信じるとは、「神はきっと○○してくれる、神は自分を裏切らない、神についていけば間違いない、と信じる」ことでしょう。
そうすると、「信じる者は救われる」とは、神の実在を信じている人を神は救うということでしょうか。あるいは、神を信頼している人を神は救うということでしょうか。
その場合、神は、この人は神の実在を信じている、あるいは、この人は神を信頼している、ということをどのようにして知るのでしょうか。神が人間の脳とか心とかを覗いて「信じている」かどうか確認するのでしょうか。それとも、人間の脳とか心とかから神に向かって、「信仰」と呼んでも「気持ち」と呼んでもいいですが、何かが電波のように発せられ、それが神に届くという仕組みなのでしょうか。
あるいは、このように、「信じている」ということが神に確認されたり、何かが神に向かって発せられ届いたりして、その返答として、神から救いがもたらされる、という仕組みではなく、脳や心の内側の作用として、信じれば自己暗示的に良い結果を招く、ということなのでしょうか。しかし、この場合は、神は最初から心の産物、つまり、自分の一部にしか過ぎない、神は自己の延長線であり他者ではない、という問題があります。
けれども、救いを神からの返答とする場合にも問題があります。「信じている」ことが神に認められたり届いたりした結果神が救いをもたらす、という仕組みは、自動販売機にコインを入れてボタンを押し、機械がそれを認識すれば缶コーヒーが出てくる、という仕組みと同じではないでしょうか。「救われる」という缶コーヒーを得るために、「信じる」というコインを投入するのでしょうか。
自動販売機の場合、コインを入れて、(ジュースではなく)コーヒーのボタンを押すという操作によって、望みどおりの缶コーヒーを手に入れることができます。わたしたちは自動販売機を操作して、望みの結果を得ることができます。万が一それが得られない場合は、叩いたり蹴ったりする人もいるでしょう。自動販売機はわたしたちが操作をして言うことを聞かせる相手なのです。では、神を信じてその見返りとして望みの救いを手に入れようとすることはどうなのでしょうか。「信じる者は救われる」という言葉を公式や関数のようにみなす場合、神はわたしたちによって操作される救いの自動販売機になってしまいはしないでしょうか。それはもはや神ではなく、人間の手になる機械ではないでしょうか。
もう一つの問題は、「信じる者は救われる」と言いますが、どれだけ信じれば救われて、どれだけなら救われないのでしょうか。昨日は神がいると思える気分だけど、今日はそうではない、ということが繰り返される時はどうなのでしょうか。99%は信頼しているけれどもどこか信頼しきれていない部分、信じていない部分がある、という場合はどうなのでしょうか。
次回は、「信じる」ことの量や質が測れるのか、考えてみたいと思います。