4 信じることは神を束縛すること?

 「神の意志を束縛してはならない」「神を脅してはならない」「神に決断を押しつけてはならない」と聖書はある箇所で言っています。もう少し正確に述べますと、日本聖書協会発行の新共同訳聖書の「旧約聖書続編」にユディト記という歴史フィクションがあり、その中で、主人公の女性ユディト(「ユダヤ女性」の意)が「8:16 神なる主の御意志を束縛するようなことはやめてください。『神は人間と違って脅しに左右されることなく、決断を押しつけられることもない』のです」と語っているのです。

 ユディト記は、イスラエルのある町がアッシリア軍に包囲されている、という舞台設定をします。水が涸れ、消耗していく人々は、このまま死んでいくよりも捕虜になった方がましだ、敵軍に降伏してくれ、と指導者たちに訴えます。しかし、指導者の一人オジアは「7:30 兄弟たちよ、頑張ってくれ。あと五日耐え抜こう。その間にきっと、神なる主は憐れみをもって我らを顧みてくださる。我々を全く見捨ててしまわれるはずがないのだ。7:31 もし五日たっても助けが来ないなら、そのときあなたがたの願いどおりにしよう」と答えます。
 
 敵軍に降伏せずに、神を信じて耐え抜こう、オジアの答えは非常に立派に聞こえますが、じつは、この言葉には問題があるのです。つまり、五日間は神を信じて耐え抜くが、それで望む結果が得られなければ、神を信じて耐え続けることを止めて、神抜きで自分たちの思い通りに行動する、と言っているのです。言い換えますと、「神よ、五日間の間に助けてくれ。そうでなければ、もうおまえを信じない」ということなのです。

 これを聞いたユディトは指導者たちを痛烈に批判します。「8:12 いったいあなたがたは何者ですか。あなたがたは今日、神を試みたうえに、神に代わって人々の間に君臨しようとしているのです。8:13 今、あなたがたが瀬踏みをしている相手は、全能の主です。いつまでたっても何も分かりはしないでしょう」。

ユディトはまず、指導者の答えは「神を試みている」と言います。ユディト記とは物語の成立時代も時代設定もずっと古い出エジプト記にこんな話があります。奴隷として過酷な扱いを受けていたエジプトを脱出した後、イスラエルの人々は荒れ野を旅しますが、水が得られず、喉がかわきます。イスラエルの人々は「果たして、主(神のこと)は我々の間におられるのかどうか」(出エジプト記17:7)と言って、神がここにいるなら「我々に飲み水を与えよ」(17:2)と指導者モーセに迫ります。このことへの反省があって、後の文書、申命記は「あなたたちの神、主を試してはならない」(6:16)と戒めています。

これになぞらえれば、ユディト記に登場するイスラエルの指導者は、「神よ、おまえが本当にここにいるなら、五日間の間に我々を助け出してみよ」と言っていると読むこともできます。「あと五日耐え抜こう。その間にきっと、神なる主は憐れみをもって我らを顧みてくださる。我々を全く見捨ててしまわれるはずがないのだ」という指導者の言葉は、信仰深いようにも聞こえますが、神を試しているとも読めるのです。

「信じる者は救われる」という言葉はどうでしょうか。ここには、「神よ、おれはお前を信じている、だから、救えよ」という含みがないでしょうか。「信じる者は救われる」の反対は「信じない者は救われない」だけではなく、「信じる者は救われる、のでなければ、(わたしは神など)信じない」でもあるのではないでしょうか。

ユディトはこれを「神に代わって人々の間に君臨しようとしている」と言います。イスラエル民族と指導者との関係で言えばこうなりますが、個人の内側のことで言えば、「神に代わって自分が自分の神になろうとしている」ということになるでしょう。

ユディトは「瀬踏みをしている」と言います。「瀬踏みをする」とは「ちょっと試してみる」ということです。神がどういう反応をするか、探りを入れてみるというのです。「信じる者は救われる」という言葉が、少し前に述べた「希望の言葉」ではなく「命題的(論理学的)真理」「法則」であるならば、その論理や命題が正しいか、その法則が正しく働いているか、試してみる必要が出てきます。つまり、「信じる者は救われる」という言葉は、一歩間違えれば、神を試すことにつながってしまうのです。

しかし、ユディトは神が人間に応じるとき、そのような法則にしたがっているとは考えません。「8:14万物を造られた神の心を探ってこれを悟り、その考えを知ることができましょうか」と彼女は言います。これは、神の知恵が人間の思いも寄らないほど深かったり神秘的であったり突拍子もなかったりするというよりも、神は法則によって縛られない、人間が投入する値に縛られないということではないでしょうか。

ユディトは言います。「8:15 たとえこの五日以内にわたしたちを助ける御意志がないとしても、主は、お望みの日数の間わたしたちを守ることもでき、また、反対に、敵の前で滅ぼすこともおできになるからです」。つまり、「五日」という日数で神を縛ることもできないし、そもそも、「救う/救わない」ということに関しても、それは神の意志の問題であって、人間の放り込むコインの枚数には関係ないということなのです。

そして、続く言葉が冒頭に挙げた「8:16 神なる主の御意志を束縛するようなことはやめてください。『神は人間と違って脅しに左右されることなく、決断を押しつけられることもない』のです」というものです。

「信じる者は救われる」、この言葉を法則とする限りは、「おれは信じているのだから、神よ、お前はおれを救えよ」と神を束縛し、脅し、決断を押し付けている、ことと限りなく近いのではないでしょうか。

次回は、「信じる」の内容を考えて、「救われる」の検討への道を進めたいと思います。