1 信仰と奇蹟抜きの宗教

 わたしはキリスト教の牧師です。キリスト教徒です。キリスト教は、じつは一枚岩ではなく、おおまかにはカトリックプロテスタント正教会にわかれます。カトリックの中にも、様々な修道会がありますし、また、地域や時代や個人によっていろいろな考え方があります。プロテスタントもさらに多くの教派にわかれますし、教派が同じでも、それに属する個々人の考え方はさまざまです。極端な言い方をすれば、キリスト教徒の数だけ、キリスト教信仰のあり方が存在するのです。

 それにもかかわらず、共通点を探すと、旧約聖書新約聖書を拠り所にすること、イエスを何らかの意味で自分の人生の中心におくことと言えるでしょう。言いかえれば、イエスを個々人それぞれの意味で「救い主」(キリスト)としているということです。しかし、聖書を拠り所にするにしても、一言一句事実としてとらえる人もいれば、事実とは考えられないものは事実とは考えず、けれども、そこにもメッセージを読み取るという人もいます。イエスについても、文字通り奇蹟的神がかり的神の子と考える者もいれば、イエスの言動、とくに弱い立場の人々や強い立場の人々とのかかわり方、イエスの神観などに価値をおく者もいます。

 しかし、このようなキリスト教徒の多様性にもかかわらず、キリスト教徒は皆、「神を信じる者が救われる」と考えているとか、聖書のすべての言葉を疑うことなく、奇蹟の話もそのまま信じている、と思っている人が多いのではないでしょうか。キリスト教徒でない人はたいていこのように思っていると考えられますが、キリスト教徒の中にもこのように思っている人は少なくないでしょう。

 けれども、わたしは、「神を信じる者が救われる」とか「奇蹟をはじめ聖書の記述は皆事実である」という立場をとらなくても、旧約聖書新約聖書、そして、イエスから自分の人生の中心におくようなメッセージや価値観を受け取ることができると考えています。

 アガペーというギリシャ語は「愛」と訳されますが、「神の無償の愛」を意味します。インマヌエルというヘブライ語は「神がわたしたちと一緒にいる」という意味です。この二つの言葉の方が、「神を信じる者が救われる」とか「奇蹟をはじめ聖書の記述は皆事実である」とかいう考え方よりも、宗教思想として深いし、論理的だと思います。

 ただし、「神を信じる者が救われる」という考え方が間違っているとか、無益であるとかは思いません。後ほど詳しく述べることにしますが、「信じる」とはどういうことか、「救われる」とはどういうことか、考え始めると、それぞれの言葉が、様々な意味に理解されることがわかります。逆にいえば、これらの語の定義がしっかりとなされていないままに「信じる者は救われる」と言われているのです。しかし、意味を掘り下げなくても、「信じる者は救われる」と思ったり、感じたり、信じたりすることにも大事な面もあります。

 ということで、次回は、「信じる者は救われる」ということを考えてみたいと思います。