2年前に読んだ本なのに、それを忘れて、また買ってしまいました。さいわい、中身もほとんど忘れていたので、楽しく読めました。
今回は「精神」と「信仰」の二点をノートしたいと思います。
「精神とは何か。一言でいうとそれは「私たち」のことです。私たちはさまざまな活動(学問、芸術、政治、宗教など)を行なっていますが、精神はそうした社会的な共同作業を通じて、歴史上に現れてくる集合体を指します。つまり、精神は、自然界における物理的現象や動物的活動と区別された、人間に特有の社会的行為の総称といってもいいでしょう」(p.46)。
つまり、ヘーゲルがこの本で言う「精神」は、一個人のメンタルのことでもなければ、宇宙の原理や神的存在のことでもないのです。むしろ、「時代の精神」というような言い方に近いように思われます。
「つねに人間は他者と共にあり、その関わりのなかで生きている。「私」と「私たち」とは切り離せない。こうした事実を、ヘーゲルは精神という言葉で表そうとしたのです」(p.50)。
ところで、ヘーゲルは18世紀のフランスのサロンを批判したそうです。
「社会問題を話題にしているときでさえ、彼らは本気で問題を解決しようなどとは考えていません。彼らが求めていたのは「正しさ」ではなく、アイディアの奇抜さや弁舌の巧みさであり、いかにエスプリに富んだしかたで相手を論破するかが重視されていたのです」(p.62)。
これは、今の大学教員や「学者さん」の一部にも通じると思います。エスプリに富んでいるというより、一般読者にはわからない業界用語、論述法で、素人には難解な文章を書き連ねています。「問題を解決しよう」などとは感じられません。斎藤幸平さんの一般書は、難解ではなく、問題を解決しようという本気が感じられます。
「なぜ「リベラル」と呼ばれる人々の主張は、多くの日本国民の耳には届かないのか。それは、自民党支持者が寄せている伝統的な価値観への「信頼」を見逃しているからです。愚かな大衆が「美しい日本」を掲げる自民党に騙されているのではなく、日本に暮らす多くの人たちが信頼を置く生活様式や慣習に依拠した日常的な価値観が存在しているのです。これが「信仰」です。この信仰の次元をひとっ飛びに越えて、「グローバル・スタンダードを知らないのか」「目覚めよ、自民党支持者!」と声を張って、欧米のデータやエビデンスを出しても、リベラルの啓蒙はうまくいかないのです。
啓蒙は一方的に相手を否定するばかりで、相手の立場に対する理解や、自分たちが間違っている可能性への自己反省を欠いています。ゆえに立場の違う信仰と協働できない。ここに啓蒙の限界があります」(p.82)。
自分の思いを伝えようとするなら、その前に、相手の立場を理解することですね。それは、リベラルにも保守にも、わたしにも、つねに課題ですね。
「啓蒙の立場が、すべては科学的・実証的に説明されなければならないと考えるのに対して、信仰の立場はそれ以外の方法も使いながら、人生の意味や世界を理解しようとします。そうした信仰の知を、実証的で経験的な理解に矮小化してしまうと、宗教の意味や社会的な役割が見えなくなってしまいます」(p.85)。
たとえば、ノアの箱舟は本当にあった、その木片が見つかった、だから、聖書に書いてあることは正しい、などとする立場は、信仰の世界に科学的な実証を持ち込んでいるのであり、信仰のはずがじつは科学の土俵にのってしまっているのです。目に見える証拠があるのなら、それは信仰ではなく、認識になってしまいます。しかし、聖書自身が「神は見に見えない」「信仰者は行き先を知らずにただ神を信頼して旅に出る」、つまり、証拠を求めるな、と言っています。
「宗教以外にも、世の中には、自然科学では説明のつかないことがたくさんあります。日常のなかで私たちが大切に感じている友情や愛、自然に触れて美しいと感じる気持ち。あるいは芸術や文学、さらには国家、民主主義。こうした実践や制作活動を通じて、私たちは他者と共に、個の人生や社会を色彩豊かなものにしてきたのです。
まさにこうした人間的な次元こそ、ヘーゲルが「精神」と呼んだものと重なります」(p.86)。
「「この奇跡は、あの歴史的な出来事に対応している」「ここがイエス・キリストが処刑された場所だ」と実証主義的に――つまり、相手の土俵に立って反論せざるを得なくなっていきます。
こうした状況について、ヘーゲルは、啓蒙という病が信仰側に「伝染」して冒されたと表現します」(p.89)。
信仰者のなかには、啓蒙の「土俵に立って反論せざるを得なくなっている」どころか、すすんでそうしている人びともいますが、それが「伝染」の結果とは気づいていないのです。ようするに、信仰には論理的物的証拠などは無用で、それに頼るなら、それは、信仰ではなく認識なのです。
「ヘーゲルは、啓蒙は普遍性を手にすることはできず、有用性の世界へと没落していったと結論付けています。啓蒙に決定的に欠けていたのは、科学だけでは説明できないものを大切に考える「精神」としての理性です」(p.96)。
キリスト教が神の存在の証拠とかイエスの復活の証拠などと言っていると「有用性の世界へと没落」し、「普遍性を手放す」ことになってしまうのです。
「コンフリクトを相互承認に基づいて調停し、一緒に考えながら、絶えず新たな知を反省的に生み出していく・・・そのような「開かれた始まり」こそが、近代の到達点としての「絶対知」なのです・・・「絶対精神」も、つねに新たな知に開かれている精神のありようを指しています。「絶対知」や「絶対精神」を全知全能の神の視点として誤解する人が絶えませんが、それはヘーゲルが考えていたこととは正反対なのです」(p.129)。
「絶対知」「絶対精神」は「つねに新たな知に開かれている精神」ですから、つねに暫定的なものです。つねに「絶対化できない」という意味において「絶対知」「絶対精神」なのです。
じつは、全知全能の神も、人間の認識では把握不可能で、信仰も神学も、つねに「開かれた知」でなければなりません。神はこうだ、これはこうだ、と言い切ってしまえば、そこから先は閉じてしまって、「開かれた知」ではありません。人間がこうだと言い切った神のことを偶像と呼びます。偶像を拝んではならない、ということには、人間の認識を絶対化してはならない、ということが含まれています。