「政治は、そうした価値の複数性や多元性を前提としながら、いくつかの『正しさ』の間で調整や妥協を図る営みなのです」(p.39)。
しかし、「価値の複数性や多元性」と言っても、人を殺してはならない、人から盗んではならないという考えと、人を殺してもよい、人から盗んでもよいという考えの間で「調整や妥協を図る営み」を政治が担うべきではありません。
殺してはならない、盗んではならないというのは、政治以前の普遍的な価値観です。ただし、国家による戦争、略奪、企業による公害、搾取を正当化せず「殺人」「盗み」として禁止することや、そのようにして殺され盗まれている人びとを助けることは、政治の役割でしょう。
「権力への抵抗は自分への抵抗だと考えるべき」(p.101)。
自分が権力者と同じようなことはしない、自分も権力者になり権力を弱い立場の人に行使する可能性がある、家庭の中で自分は子どもや妻に権力をふるっている。こういう自覚は不可欠ですが、権力を総動員して軍事基地を造ったり武器を行使したりする国家に抵抗することは、自分への抵抗とは単純には重ならないでしょう。自分を止めることはできても、戦車を止めることは非常に難しいのです。自分を止めても、戦車は止まりません。
「自分たちが壊そうとしている壁は実は自分たちの中にあるのです。壁は外にあるのではありません」(p.120)。
立ちはだかる機動隊はわたしたちの中にいるのではありません。わたしたちの心の中の何かを倒しても、機動隊は倒れません。壁は外にもあるのです。しかも、外の壁の方がかたくななのです。
「私たちが変わることなしには、官僚制も政治も変わらない」(p.168)。
住民一人一人の声や有権者の一票はもちろん大事ですが、行政や立法の持っている力と、一人の人間の発信力、一票とでは、格差がありすぎます。
「私」が変わるのではなく「私たち」が変わることを、「私」ではなく「私たち」が意識化し、「私たちの声」「私たちの票」にしなくてはならないのですが、そのための思想、方法論、技術が未熟すぎると思います。
そういう事態の中で、「私たちが変わらなければ、政治も変わらない」という発言は、現状追認にしかならないでしょう。
政治は、異なる利害関係者間の調整などではなく、弱者、困窮者を見捨てない、誰をも差別しないという普遍的価値の実現である、という思想が、「人を殺してはならない」「人から盗んではならない」レベルで浸透するにはどうしたらよいでしょうか。
やはり、根本的な教育、学習でしょうか。