誤読ノート378 「憎しみが愛に変えられる未来が必ず来る。ならば、それを希望として、今から先取りしてそのように生きようではないか」
「希望の倫理」(ユルゲン・モルトマン著、福嶋揚訳、新教出版社、2016年)
米軍基地建設、安保法制、原発再稼働、共謀罪。これらを強行する政府は、日本国憲法下の日本社会が不十分ながらもなんとか築いてきた民主主義を、いっきょに大日本帝国憲法下レベルにまで押し下げたと思います。じっさいは、日本国憲法施行直後から権力者の強権発動は始まっていたのですが。
立て続けに起こる大地震や津波、洪水、噴火なども、防災の科学や技術の進歩、政策の展開をあざわらい、自然災害に対する人間のレベルがまだまだ低いことを思い知らせています。
せっかくここまで来たのに、また押し戻されてしまった、いつになったら、ここから解放されるのか、とわたしたちは問わざるを得ないでしょう。こんなに果てしなく大きな課題を前にして、わたしたちは、どう考え、どう生きたらよいのでしょうか。
「希望の倫理」はこの問いへのひとつの、そして、重要かつ有意義な回答だと思います。
「希望」とは何でしょうか。
「希望に支えられた行為は自由な行動であって、強いられた行動ではない」(p.28)。希望とは、「ねばならない」ではなくて「できる」なのです。
「希望において私たちは、遠い目標と到達可能な近い目標とを結びつける」(p.29)。希望とは、〈多少の犠牲は仕方がない〉というような安易な〈現実主義〉とやらでもなく、ただの慣用句として〈いつかきっと〉と繰り返す〈理想主義〉でもなく、真の理想の遠大な目標を掲げながらも、目の前のひとつひとつの課題に取り組む者らを導く、いわば「火の柱、雲の柱」(出エジプト記13:21)でしょうか。
「希望」についてのわかりやすい表現が、本書には他にもいくつも出てきます。
「恐れの倫理は危機を見るが、希望の倫理は危機の中に好機を認識する」(p.31)。
「『希望の倫理』の根本概念は、前もって見ること、希望を知って、明日あるべきことを先取りすることである」(p.37)。
では、「倫理」とは何でしょうか
倫理には「世への責任」と「抵抗」と「オルタナティブな生き方」(p.88)が含まれます。つまり、わたしたちが、他の人々や自然にとってよりよい世界にする責任があり、それらを苦しめる暴力・権力には抵抗しなければならないのです。悪の現状を否定したうえにそれに変わる生き方を描き出す必要もあります。
「どんな倫理も生命を保持し促進すべき」(p.156)。倫理とは、人間や動物、植物、自然を守り(人間だけではない!)、その生命を促進する精神なのです。
「神による無条件の受容は・・・中略・・・キリスト教的な神経験の核心部分であり、自己尊重と隣人愛にとっての永遠の根拠である」(p.224)。神がわたしたちを無条件に受け入れてくれるということが、キリスト教の根本にあり、わたしたちと隣人の尊厳の、つまりは、倫理の、いつまでも変わらない根拠でありましょう。
「この共同体は、あらゆるキリスト教的な共同体の原型であり、キリスト教的社会理論の根本思想、すなわち連帯ということの起源である」(p.268)。倫理にとって、共同体における連帯は欠かせないものではないでしょうか。
「キリスト教倫理はキリストの共同体とキリストへの服従にアイデンティティを持ち・・・中略・・・自らの意義を同時代の問題や危急の中に見出す」(p.378)。キリスト教倫理は、キリストに倣って、キリストのあとを歩き、キリストの生き方や教えに導かれること、そして、キリストの体である共同体で他者との関係においてキリストに従って生きることに根ざしています。その時代の困難な問題や危機的な状況にあってこそ、そのようなキリスト教倫理は意義を持ちます。
「キリスト教倫理は、この世に到来したキリストに対する人間の反応であり、新しい世界におけるキリストの未来の先取りである」(p.382)。キリストを通して神がわたしたちに示してくださった愛と受容、また、キリストが実践し教えてくれた愛の生き方に対する、わたしたちの感謝、応答こそが、キリスト教倫理なのです。また、キリストの愛の生き方、たとえば、愛敵の生き方は、キリストが創造してくださる未来における人びとの生き方であり、それを先取りして、今キリストに従って生きる生き方なのです。
「希望の倫理」とは、剣が鋤に打ち直され、敵への憎しみが愛に変えられる未来をキリストがかならず創造してくださると信じ、この希望を持ち、いますでに、その未来を先取りして、キリストが生き、教えたように、キリストに従って生きる倫理のことではないでしょうか。