新自由主義とは、財産や能力は個人の私的所有物であり、それを他の人のそれと等価交換する自由があり、それについて契約する自由があり、私的所有物は自分の好きに使える、といった考え方であり、これが今の世界を覆っています。
ようするに、人は皆自由なのであり、困難なことがあっても、それは、その人個人のことであり、あるいは、自由に行動した結果なのだから社会には関係ない、ということです。つまり、私的所有権は認めても、生存権などの社会権は無視するのです。
その新自由主義の「嘘」とは、こういう主義に基づいた世界にしか人間の自由はない、と主張することです。
そして、新自由主義は、能力は個人の私的所有物に決まっていると唱えますが、これもまた嘘だと著者は言います。
では、なぜ、能力は私的所有物ではないのでしょうか。
たとえば、サッカーの技能などはその人のものだと思われますが、じつは、遺伝的な身体能力やコーチのトレーニングに「負う」部分も大きいのではないでしょうか。
ownという英語には、owner という名詞に見られるように、所有という意味がありますが、じつは、「誰かに負う」「誰かのおかげである」を意味するoweと同じ語源だそうです。つまり、所有は誰かのおかげであるということをownという単語は示しています。そのように考えると、能力もたんじゅんに自分のものだと言い切ることはできません。
日本語がいくら上手でも、日本語をまったく必要としない社会では、それは能力ではありません。他の日本語の使い手がいてはじめて、そうなるのです。つまり、誰かの日本語の能力は他の日本語の使い手に「負う」ものなのです。
あるいは、歩けない人はその人が歩けないのだと見なされがちですが、足で歩くことの代替技術やそれに基づいた街並み設計を用意していない社会の問題ではないでしょうか。誰かが歩けないという問題はその人の私的所有ではなく、じつは、社会の(解決すべき)所有
(問題)なのではないでしょうか。
歩ける人も、それが自分の私的所有能力のように考えがちですが、足で歩く人向けに設計された街に負っている部分が大きいのではないでしょうか。
だとすれば、誰かが高い能力を所有しているとか、それゆえに高収入は当然だとかいった考えも見直さなければならないでしょう。
いま世界には貧富の差が蔓延し、それと深くつながって、能力や学歴による差別が常態化しています。人種や性ではなく能力による差別は疑問視されません。貧富の差、毀誉褒貶の差は、能力によるものだから当然だとされています。
しかし、貧富の格差、生活の安全の格差、人間の尊厳の格差、生命の危機の格差を是正するには、著者が言う「能力の共同性」をしんけんに再考しなければなりません。