523 「ぼくの人生の資料を、ネットの向こうの存在しない誰かに」・・・   「首里の馬」 (高山羽根子、新潮社、2020年)


 主人公は「沖縄及島嶼資料館」の大量の収集物をスマホで撮影し、SDカードに収める。ある日、そこは閉じられることになる。そこで、彼女は、それらの膨大なデータを、宇宙、深海、地下シェルターに住む三人に送信する。何のために。

 「かつて島に暮らす人たちが絶望していたとき、その周りに広がっている景色は、地獄だった。彼らが暮らしていた直前までの場所とは地形からまったくちがってしまっていた。財産も家も森も、堀も坂道も、あらゆる生き物もすべて吹き飛んでしまった」(p.156)。

 

 ここには、日本軍と米軍に襲われた沖縄と人びとについて聞いたことをなんとか表現しようとする気配がある。けれども、つぎのくだりはどうか。

 「港川と呼ばれている一帯、かつての外人住宅――といったって、それができた当時ここは日本にとって外国だったわけだから」(p.4)。

 ここには、沖縄にとって日本とアメリカは侵略者、土地略奪者であることへの神経がまるで無い。

 (ガマは)「戦中は防空壕として使用され、太平洋戦争末期になると大小規模の集団自決がいくつも行われた」(p.48)。

 

 あれは「自決」と言ってしまってよいものなのか。強いられたのではなかったか。「集団」や「大」「小」などという形容は、殺されたひとりのいのちへの冒涜ではないか。

 作家の未熟さにもかかわらず、ある出来事の「資料」を残し、誰かに託す主人公の行為は、非常に重要である。しかも、小さな島を襲った巨大な暴虐の資料を、世界の最果ての孤独者に託すことは、象徴的だ。

 ぼくは、悲しいこと、怒ったこと、感動したこと、おもしろかったこと、おかしかったこと、大事だと考えたこと、美しいと思ったことやものをSNSで発信してきた。読んでくれる人はいる。しかし、多くはない。本になることはない。

 

けれども、ぼくの言葉は、広大な宇宙にひそかに漂い、何百年かのちに、孤独な誰かに読んでもらえるのではないか、という空想をしないわけではない。ぼくの資料もネットの向こうのまだ存在しない誰かに委ねよう。

 

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