「教皇フランシスコ 12億の信徒を率いる神父の素顔」(マリオ・エスコバル著、新教出版社、2013年)
ぼくはプロテスタントの牧師だが、それになるために、そして、なってからも、どれほどの修養を積んできたことだろうか。
本書を読むと、教皇に選ばれるような神父が、いや、そもそも神父になろうとする者は、ぼくなんかよりはるかにきびしく真剣で長期間の霊的な訓練を受けて来たことを知らされる。(それだけに、なお、信者に対する性的虐待は許されざることだし、その事態と発覚はきわめて深刻である)。
「神学生の基礎は祈りだ」「最初の一年間、祈りに集中することで、ものごとに対する認識が変わり、その後、新たな能力を身につけていく上での大きなプラスになるからだ」(p.34)。
ぼくは神学生の最初の一年間何をしただろうか。祈りという基礎を据えることをしなかった。だから、その上に築かれた霊性の何と弱いことか。
「新教皇にとって祈りはコミュニケーションであり、純粋に語り、純粋に耳を傾ける行為だ。神が語り出すのを待つ厳かな沈黙と、アブラハムやモーセがおこなったような神との交渉の混ざりあったもの・・・・・神に対する忍耐と謙虚さ、畏怖の念・・・」(p.193)。
ぼくは、聖書は読んで来たし、神学書もぱらぱらめくってきたが、このような祈りを涵養してきただろうか。
「憎しみ、妬み、尊大さは確実に人生を台無しにします」(p.204)。
ぼくは憎しみ、妬み、尊大さの権化であるにもかかわらず、神に見捨てられていない。むしろ、愛されている、と信じている、けれども、これらによって、人と自分を深く傷つけてきたことはたしかだ。そのようにしないために、今からでも、祈りを基礎とした霊性を受け取りたい。
「聖職者が親しみやすい存在となり、教会を訪れる人々を温かく迎え、寄り添うこと。アルゼンチンのカトリック教会が“誠実なもてなし”と呼ぶもの」(p.167)。
ぼくは下手な営業スマイルはするが、祈りの基づいた親しさ、温かさ、寄り添い、もてなしを持っていなかった、と教えられた。
祈ろう。しかし、祈りは願いではない。願いからは霊性は育たない。
「彼にとって祈りとは、神に何かを求めることではなく、降伏してすべてを委ねることだ」(p.27)。