小学校低学年だったでしょうか。子どものころ、小倉で原爆展が開催されました。親に連れて行かれたのだと思います。親との外出ということで、最初は浮かれていましたが、すぐに、見続けるのが恐くなりました。焼けた街、建物、そして、人。高熱のせいで、靴が足に焼き付いてしまった子ども。最後まで見つづけた記憶はありません。けれども、あとから教えられたことかも知れませんが、見なければならない、という思いが刻み込まれています。
戦争、虐殺、テロ。暴力で殺された人びと。地震、津波、洪水、土砂、激流。自然災害で死んだ人々。そうした人びとの存在をわたしたちはメディアから知らされ、しばらくは、神妙な面持ちになりますが、それはいつまで続くでしょうか。遠い地域での出来事に、本当に痛みを感じているでしょうか。人びとの死、殺戮が数字にされ、それが並んで慣れっこになり、もういいやと心を向けなくなっていないでしょうか。
新約聖書によりますと、イエスの同時代、ヨハネという人がいました。彼は、人びとの心が神から離れていることを憂い、神へと向き直ることを訴えました。同時に、持てるものを貧しい人とわかちあうこと、不正に金をとりたてないこと、人を脅したりゆすったりしないことも求めましたが、これら対人関係についての教えは、神への回心と不可分のものでした。
ヨハネは、やがて、王の不正な結婚を批判します。その結果、牢に入れられます。王の誕生日の宴において、その妻の娘が王の前で舞い、褒美に欲しいものを何でも与えると言われます。娘は「ヨハネの首を」と求めます。ヨハネの首は獄中ではねられ、盆に載せて、宴の場に運ばれます。
聞くだけで怖くなります。場面を想像するだけで恐ろしくなります。
けれども、わたしたちはここから逃げてはならないのではないでしょうか。聖書はそのことを教えているのではないでしょうか。
この世界は、神に造られた美しい場所であるのに、わたしたち人間はこのような残酷なことを繰り返しているのです。そのことを知りたくなくても、考えたくなくても、そこから逃げないことによってしか、その痛みを体に刻み込むことによってしか、わたしたちはこれを克服することができないのではないでしょうか。
いやもしかしたら、他にも道があるかも知れません。これほど苦しくない道があるかも知れません。けれども、それは、すくなくとも、残酷な出来事をまったくなかったことにしてしまうことではないでしょう。
(マルコ6:14-29)