「キリスト教思想史2 アウグスティヌスから宗教改革前夜まで」(フスト・ゴンサレス著、石田学訳、新教出版社、2017年)
「中世・神学史」と呼んでも良いだろう。
科学は、物質の仕組みを解明することだ。基本的には答えがひとつでなければ、解明にならない。科学史とは、それを訂正し続けることだ。古い答えは、記録はされても、もはや使われはしない。
神学は、そうではない。答えは、ひとつではない。むろん、どの答えが正しいかの争いはある。けれども、古い答え、その時代に退けられた答えであっても、いまも使われうる。
たとえば、「イエスは神にして人であった」という答えが勝ったのだが、「イエスは人である」あるいは「イエスは神である」という答えも、まだ生きつづけているし、使うこともできる。
神学は、理性や哲学を用いるが、根本的には、詩であり、表現である。詩でもなければ、表現でもないような神学は、神学ではない。神学は、見えないものが、詩や表現という肉体のなかに宿るのを待つ営みにほかならない。
神学史は、訂正ではなく、本棚にあたらしい詩や表現を並べ加えていく歴史だ。古いものとあたらしいものが、時間軸に沿って順をなしているだけでなく、どの時間にも、そのすべてがある。神学史は、時間だけでなく、空間をも舞台にする。
「神学者たちは、知的要求と神秘的熱情のバランスを通してのみ、偉大なスコラ的構築物を気づき上げることができた」(p.274)。
神学には、知性だけでなく、神を知ろう、神に触れよう、いや、ほんとうは触れられないけれども精一杯手を伸ばそうという熱情が必要だ。知性は、熱情が詩を結ぶ一行程、一手段だ。
ボナヴェントゥラによれば、「神学の目的は神の神秘の奥底を見出したり解決したりすることにあるのではなく、神との交わりを持つことと神について瞑想することにある」(p.308)。
神学史は、解明史ではなく、神との交流史、瞑想史だったのだ。
では、中世とは何だろうか。
中世の理念は「人類が不完全な存在であり、目指すべき目標は、神との調和の結果とそれを実現する方法としての受肉を通して、神と被造物が調和の内に生きること」(p.413)であった。
被造物と人類の危機にあって、いま、この理念は、あたらしい。中世とは「神と交わり、神を想う」ことであり、何百年も昔の話などではない。