うちの子どもたちは勉強はしないわけではありませんが、成績がそんなに良いわけではありません。ぼくの方が勉強はしなかったわりには、成績は良かったと思います。そんなことで、子どもたちには、ときどきいらいらし、ときどき激しい言葉をぶつけてしまいます。ごめんね、ほんとうに。
だから、この本に期待したのは、勉強のさせ方よりも、子どもたちへの声のかけ方、接し方です。それから、「アドラー流」という形容詞は、この手のマニュアル本によくついてますね。いや、和田さんは精神科医ですから、アドラーも学問として学んでおられることでしょうが。
そういえば、著者は子育て、受験のハウツー本を、似たようなタイトルのも含めて、山のように書いておられるのですね。ぼくが初めて触れたのは、そっちからではなく、臨床心理の読みやすいものとして、コフートか何かの解説本でしたが。
さて、この本から学んだことです。「フロイトの考え方は、どちらかといえば性悪説に属しているように思えます」「アドラーは、どちらかといえば性善説に近い人間観の持ち主でした」(p.38-39)。
そうなんですよね。ぼくも、自分や他人に対して性悪(せいあく)説、性悪(しょうわる)説に立っていますから、ぎゃくに、性善説的な人間観からはおおいに学びたいと思います。
「子どもの劣等感を否定するのではなく、優越性の追求をサポートしてあげるのが親の役割」(p.43)。劣等感の反対は、肯定感、せめて、自信、でよいと思いますが、さすが、灘高、東大医学部となれば、優越性ということになるのでしょう。
ちなみに、この人の本は、へたすれば、だれでも、勉強法を間違わず、目標をしっかり定め、努力すれば、東大に行ける、と読めてしまいます。じじつ、著者や弟さんもその例として挙げられています。でも、そんなことはないでしょう。この人の課題は、優越性とか東大とかを持ち出さずに、子どもや若者をサポートすることではないでしょうか。
けれども、ポジティブな考え方は参考になります。「子どもが不登校を繰り返すとき、原因論で考えると「親の愛情が足りなかった」なとどなりますが、目的論で考えると「親や先生の注意を引きたかった」という目的が見つかるかもしれません」(p.49)。「もし子どもの成長について悩んでいることがあったとしても、未来に目を向けて何ができるかを考えてほしいと思うのです」(p.50)。たしかにそうです。でも、それさえもできないほど打ちのめされてしまうことも親子にはありますよね。
「子どもが汚い文字を書くからといって、勉強ができないとは限りません」「重要なのは、きれいに字を書くことではありません。子どもの長所や得意分野に注目することです」(p.99)。そうなんですかね。でも、せめて、9 とgとか、1とlとか区別できないと、先生は〇をくれないのでは? あと、字を整えることは、思考を整えることにもなるのでは。ただ、たしかに、直感的に解く場合には、字や思考を整理するより、スピードが大事ですよね。
「私にいわせれば、生活保護受給者もきちんと消費しているのですから、経済に一定の貢献をしていると評価できます」(p.132)。だいじな考えのようですが、「そこにいるだけでOK」なのか「貢献があるからOK」なのか、ですよね。貢献や機能を求められると困ってしまいますが、でも、何もしないでそこにいるだけでうれしいよ、とか言われても、貢献したいし、機能を持ちたいですよね。「そこにいるだけでOK」とは「そこにいるだけで何かに貢献している」ということであり、「そこにいるだけで何かに貢献している」とは「そこにいるだけで十分だよ」なのかも知れません。
「なんでこぼすの!!」ではなく「こぼしたら汚れてしまうから、ふきんで拭こうね」(p.183)。そうですね。ぼくに役立つのはこういう言い変えあたりかな。
和田さん、灘中でいじめられたそうですが、同級生では、中田考さんもいじめられていたそうです。ご本人たちは当時はつらかったでしょうが、40年経って、活字になると、なんだか、そうだったろうね、となんだかほっとするエピソードです。