(93)「新しいことを知ったら、それにふさわしい新しい人生が始まります」

 演劇のおもしろさに気付いたなら、わたしたちは、自分の小さな部屋を出て、劇場に行かずにはおられません。シネマの味わいに触れたなら、家を出て、映画館に行かないわけには行きません。

 山の魅力を覚えたなら、わたしたちは、町を出て、登山口へ向かいます。水平線上の夕陽を美しむようになったなら、午後は海沿いの道を辿ります。

 新しい世界を知ったなら、わたしたちはもはや今まで生きてきた古い世界に留まることはできず、その外に出て、新地を歩み始めます。新しい精神には、新しい場所がふさわしいのです。

 新約聖書によりますと、イエスは目の見えなかった人を見えるように癒しました。そして、その村を出て行くようにと促したのです。

 見えるようになることは、目に見えない神を感じる、知ることにつながります。そして、神を知ったなら、これまでの古い生活から新しい生活に歩み出すようにと、イエスは押し出すのです。

 神を知ってからの、いや、神と出会ってからの、あるいは、おぼろげながら神を感じるようになってからの新しい生活とはどのような生活のことでしょうか。

 それは、不安な自分の人生の根本の支えを、神にするということです。不確かな人生を、神を信頼しながら生きて行こうとすることです。

 わたしたちは、お金、人間関係、立場、健康、計画など、目に見える確かなものに頼りがちです。けれども、裏返せば、それらの欠乏で、いつも心を煩わせているのです。

 けれども、そのような古い生き方から脱出して、神を信頼して生きる新しい生き方、どうなるかはわからないけれども神がきっと何とかしてくれる、道を切り開いてくれると信頼して生きる新しい生き方に入るように、イエスは人びとを導いています。

 見えるようになって、これまでの村を出る。それは、わたしたちが神を感じるようになって、目に見える安心を何とか手に入れようとしながらもそうできない古い生活から脱出することの比喩でもあるのではないでしょうか。

(マルコ8:22-26)