(57)「目に見えない、深いところにある、世界の根源を信頼する」

 たしかな証拠が欲しい。わたしたちは不安な問題を抱えているとき、その不安を解決してくれるようなたしかな証拠を求めます。

 子どもを高校、大学と進ませるには、受験料、塾費用、入学金や授業料、教材費、学校活動費、部活費など、百万単位のお金を必要としますが、これは、簡単に調達できるものではありません。

 ある調査によりますと、東京の私大生と高校生がいる埼玉の家庭では、1年間に800万円以上必要ですが、平均収入は550万円くらいだそうです。250万円はどうするのでしょうか。これを何とか補てんできる確証をつねに求めて、悩み、苦しみ、心をわずらわせるのですが、なかなか250万円をたしかなものにすることはできません。

 子どもたちの進学についても、今の学校でこれくらいの成績順位で、模擬試験でこれくらいの結果を出しているから、〇〇大学あたりなら合格できるのではないか、というたしかな感覚を持ちたいのですが、これもなかなかそういうわけには行きません。

 それでも、わたしたちは、いつまでも、目に見えるたしかな保障を追い求めてしまいます。そうではなく、なんとかなるさ、人生がなんとかしてくれるさ、世界がなんとかしてくれるさと、証拠なしに、けれども、深い信頼に基づいて、安心できたら、どんなにすばらしいことでしょうか。

 聖書によりますと、ある人びとがイエスのところにやってきて、「おまえは神の子だと言われているようだが、そのしるし、その証拠をみせてみろ」と言います。

 これに対して、イエスは「そんなしるし、そんな証拠は、よこしまな人間、神を信頼しない人間が求めるものだ」と答えます。

 この時代、神がいるとかいないとかはあまり問題ではなかったのではないでしょうか。むしろ、ここでは、神はいることが前提で、それに信頼するかどうかか重要だったのではないでしょうか。わたしたちが世界や歴史や人生の存在は疑わないけれども、それに信頼するかどうかが大事であるように。

 目に見えるしるしはないけれども、あるいは、感覚的にも、心理的にも、思考的にも、たしかなものはないけれども、それでも、世界と人生、言い換えますと、自分よりはるかに大きないのちに、生かされ、支えられているという根本的な、根源的な、深源的な信頼をイエスは示そうとしていたのではないでしょうか。