(50)「人生を支えてくれる二段の構え」

 「妹よ」という歌があります。南こうせつさんが歌っていました。明朝、自分の友人と結婚する妹に贈る、夜ふけの歌です。妹は器量があまり良くないから心配したとか(失礼で余計な心配!)、結婚相手は良い奴だからどんなことがあっても我慢しなさいとか、ひとしきり述べたあと、さいごに、どうしてもだめだったらここに戻ってくればよいよ、と結んでいます。

 わたしたちはこのように、二段に構えることがあります。一所懸命にやって目標が達成できるとよいね、けれども、万が一、それができなくても、他にも道があるから大丈夫だよ、と言い聞かせることもあります。

 もっと実際的なことを言えば、A大学がダメだったらB大学があるとか、C社がダメならD社があるとか言うように「スベリ止め」を確保するように考えることが人生には多いように思います。D社もだめなら、実家に帰るということもあります。わたしも、転職をと三社ほど受けて不採用になったときは、九州の両親の家に帰って、つぎの旅立ちまで、しばらくゆっくりさせてもらいました。

 聖書によりますと、イエスの弟子たちは嵐の湖を舟で渡っていました。真夜中です。逆風が吹き荒れ、波が立ちました。弟子たちは恐れおののきます。

 ところが、そこにイエスがやってきます。驚くべきことに、嵐の湖面を歩いてきたのです。これは、人生の困難な道を歩くことの比喩かもしれません。ペトロという弟子はそれを見て、自分も湖面を歩もうとします。ペトロもイエスのように、苦しくても人生の道を歩き抜きたいと願ったのかもしれません。

 ペトロはイエスの方を見すえながら湖上を歩き始めました。最初の数歩はうまくいったようです。けれども、強い風を気にしだしたとたんに、足が沈んでしまいます。

 そのとき、イエスが手を伸ばし、ペトロの手首をしっかりとつかみました。

 ここで、イエスはペトロのためにふたつの道を用意していたのかもしれません。ひとつは、ペトロがイエスを信じて自分で歩み道、もうひとつは、それがだめなときはイエスが手を伸ばしペトロをつかむ道です。神の救いは幾重にもなっていることを聖書は告げているのではないでしょうか。