(78)「ついにこの目で見ました」

 大学生のころ、初めて行った海外。着陸間近の飛行機の窓からハワイの土と緑を目にしたとき、「ああ、ついに外国を、この目で見たぞ」と感動したものでした。

 12月15日のシネコンのスクリーン。スター・ウォーズ・エピソード8。待ちに待った大スペクタクルを目の前にしているのだなとわくわくしました。

 そして、あの日、あの場所で、あった、あの人。あなたですか。誰かはわからないけれども、ずっと前から、ずっと会いたかった、あの人に、ついに巡り逢えた喜びは、何よりものプレゼントでした。

 新約聖書によりますと、生後何日か経って、両親はイエスを神殿に連れて行きました。そこにシメオンという老人がいて、イエスを見て、抱きかかえ、こう言います。「わたしは、いま、この目で、神の救いを見た」。

 わたしたちは、赤ちゃんを見ると、心が和みます。平安な気持ちになります。この子らには、これからすばらしい未来が待っている、とうれしい気持ちになります。さらには、この子らは世界を救ってくれるのではないか、という希望さえ抱くことがあります。

 旧約聖書の時代から、神は目に見えない存在でした。人間は神を見ることができないのです。見てもならないのです。

 ところが、シメオンは、神の救いを見た、ついに見た、と言います。どういうことでしょうか。

 わたしたちは、青空や星空を見上げ、その向こうに神を想うことがあります。神自身を見なくてもです。やさしい人、やさしい言葉に触れ、ああ、神はいるのだなと想うことがあります。神の姿をじかに目撃しなくてもです。

 二千年前に生まれたひとりの子の童顔に、ある人びとは、自分たちが待ち続けてきた神の救いを、ついに見たのです。

 そして、二千年後のわたしたちも、赤ん坊のイエスに、わたしたちが待ち続けて来たもの、いや、自分でも何を待っているかわからないけれども待ち続けているものを見ることができるのではないでしょうか。
 
 赤ちゃんの顔を見れば、わたしたちは、さがしている一番大切なものを、ついに見つけることができるのです。