(41)「日は誰の上にも昇ります」

 沖縄の離島に一泊したことがあります。宿の庭の芝生にあおむけになって、上を見ると、満天の星空でした。東京では夜空をすみからすみまで見渡して星を探さなければなりませんが、その島では散りばめられた無数の星粒の間にようやく夜の闇が顔をのぞかせているのです。

 同じ夜空を旧約聖書アブラハムという登場人物も目撃しました。定住地を持たず、放浪の旅を続けるしかなく、いまにも滅びそうな一家の長であった彼に、神はこう言います。「あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう」。今からおよそ四千年くらい前のことでしょうか。そのころは、海辺の砂のように天には星が敷き詰められていたのです。

 星空は見る者を拒みません。「わたしはこの人には自分の光が届くことを拒否します」と言う星はありません。星はすべての人を愛しています。

 寄せては返る波の音や岩と岩の間を縫う小川のせせらぎはどうでしょうか。水には死の顔もありますが、慰め、うるおい、涼しさといったいのちとしての水の音も、また、届く相手を選びません。

 原初の時代は、衣食住も、人を選んでいなかったのかもしれません。着るもの、食べるもの、住むところが、十分ではなくても、皆に平等に行き渡っていた楽園があったのかもしれません。いや、現代のような格差社会であるからこそ、衣食住だけは、無償でゆきわたるような制度や政治、精神が必要なのではないでしょうか。

 新約聖書によりますと、イエスはこう言いました。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」。

 父とは神のことです。太陽は悪人の上にも善人の上にも昇り、生きるための光と熱を与えてくれ、雲は正しい者の上にも正しくない者の上にも、体を潤すための雨を降らせてくれる。それと同じように、神は、相手に条件を求めることなく、すべての人を愛してくれる。イエスはこう伝えたかったのではないでしょうか。

 そして、イエスにとってその愛とは、空の鳥をはばたかせ、野の花を美しく咲かせるような愛、つまり、いのちの根本の力のことなのです。