(7) 「目に見えないつながり」

 一日に何回、スマホを見ることでしょうか。メールやLINEなどに、あたらしい知らせがないか。返事が来ていないか。どうしても気になります。そして、これによって、誰かとのつながりを感じるときもあれば、はんたいに、孤独が身に沁みることもあります。

 「わたしはひとりでいるが、ひとりぼっちではない」。彼女はそう言いました。やせがまんではありません。地元を離れ、受験前夜をひとり宿で過ごしていますが、孤独ではありません。なぜなら、いろいろな人たちを思い出しているからです。いや、彼女の根っこには、目には見えなくても、いつもそうした人びとがいるからです。母校の先生、学友、地元や職場の仲間、そして、祈ってくれる人びと。目には見えないけれども、そのつながりをたしかに感じている。だから、彼女は、ひとりぼっちではないのです。

 おばあちゃん、おじいちゃんが天国から見守っていてくれる。おかあさん、お父さんが星になって見ていてくれる。人の死を思うとき、死んだ人を思うとき、わたしたちはこうした表現を、言葉だけのへたな慰めとか、嘘だ、ごまかしだとは思いません。こうした言い方に、何らかのリアリティを感じています。目には見えないつながりを感じています。

 わたしたちは、目に見えないつながりがあり、それがわたしたちを支えたり、力を与えたりしてくれることを、じつは、知っています。

 大きな青空を見上げれば、ふさいだこころが開かれることがあります。雄大な山を仰いだり、林で空気を吸ったり、せせらぎの音が耳に満ちたりすれば、わたしたちは生き返った心地になります。星空は心の闇を照らしてくれ、ぽかぽかの陽光は痛む背中と冷たい心を暖めてくれます。自分を超えたもの、それでいて、自分を包んでくれるものに触れると、わたしたちは、力を与えられます。

 「オデッセイ」という映画を観ました。火星にひとり取り残された主人公が最初にしたことは、食料、燃料を確保すること、それから、地球との交信を復旧することです。地球から往復の食料を満載した救援船が到着します。つながりとはエネルギーを得ることでもあるのです。誰かとのつながり、目に見えないつながりは、わたしたちの心に力を注いでくれます。

 聖書を読みますと、イエスは、「命」「霊」「永遠の命」というような言葉を口にします。イエスは、目に見えない神こそが、自分と人間と世界の生命源だと感じています。イエスはこれらの言葉で、いのちの源である神と人間の目に見えないつながりを言い表そうとしているのです。

 受験前夜、彼女は宿でひとり明日に備えながら、思いを巡らせます。人びとを大切にし、人びとに下から仕えるように、神は自分に呼びかけていると。この目に見えない神の言葉を力にして、彼女は歩き続けることでしょう。