(40)「美しさを誰にも惜しまない花を、花瓶にさし、木枠の出窓においてみます」

 花は見る人の心をなごませてくれます。花はその美しさ、愛らしさ、明るさ、あざやかさ、望みを、さらにいえば、その哀しさ、その痛みを、誰に対しても惜しむことはありません。花は誰にでも無条件にそのいのちの姿をあらわし、見る者、触れる者、香りを受ける者を救ってくれます。たとえ、通りすがりに一瞥するだけであっても、とくに意識することなく風景の中でぼんやり感じるだけであっても。

 けれども、ある人は、花の前で立ち止まり、じっくりながめ、ああ美しいなとしばらく味わうことでしょう。あるいは、やさしく摘んで、だいじに持ち帰り、お気に入りの花瓶に差し、木枠の出窓に置いてみることでしょう。写真に撮る人もいるかも知れません。手軽で高性能なスマホがそれを促しているかも知れません。それでも、良い写真が撮れるまで何度もシャッターを押すかも知れません。そうして花の前にしばらくたたずみ、その姿を愛おしむのです。ある人は、花の彩りを帆布に写し描くことでしょう。こうして、花の愛と哀しみはその人の中にじんわり深く経験されるのです。

 聖書を読むと、神はすべての人を分け隔てなく愛してくださる、というメッセージがありますが、どうじに、洗礼を受けることも薦めています。

 洗礼を受ける人だけが神さまに救われ、洗礼を受けない人は救われないのでしょうか。そうではないでしょう。神さまは、野に咲く一輪の花が誰にでもその美しさを惜しまないように、わたしたち一人一人を見守り、支えていてくださいます。つまり、愛していてくださいます。

 そのうえで、洗礼とは、花で言えば、立ち止まってながめたり、写真に撮ったり、絵にしたり、窓辺に飾ったりして、花をさらに愛で、さらに深く経験することではないでしょうか。つまり、洗礼とは、わたしたちをすでに愛してくださっておられる神さまが、わたしたちの中にさらにじわっと浸み込んできてくださることなのではないでしょうか。