(9) 「自分の殻を破り、あたらしい人生へ」

 
 中学生の子どもがいます。〇〇高校に行くだろう、行ってほしい、とずっと思っていました。いや、思い込んでいました。決めつけていました。そういう考えに固まっていました。ところが、だんだんと、他の高校でも良い、どこに行こうと人生をゆたかにすることはできる、と思うようになってきました。

 もし、思い込みをつづけていたら、親も子も苦しくなって、そこから抜けられなくなっていたかも知れません。けれども、決めつけの殻を壊してみると、親にも子にもあたらしい世界、あたらしい考え方、あたらしい可能性が生まれるのではないでしょうか。ひとりの人が殻を破れば、その人だけでなく、その人のまわりの人、その人に関わる人の人生も少し新しくなるのではないでしょうか。

 布団の中から出なければ、あたらしい朝は始まりません。ベッドの殻を脱ぎ捨てなければ、あたらしい一日は始まりません。卵の殻を内側から打ち破って、雛鳥は空気の中に出てきます。固い蕾を窓のように外へ押し広げて、桜の花は開きます。幼虫も皮を脱いで成虫になり、羽ばたきます。

 主張がぶつかりあい、話し合いが停滞してしまったとき、誰かが自分の考えを見直し、その一歩外に出ようとすれば、その場全体もまた動き出すのではないでしょうか。

 聖書を読みますと、イエスは「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と言っています。麦の種は土に埋められ、殻を破って、芽を出し、茎を伸ばし、やがて、穂を実らせます。

 じつは、この時、イエスは避けようのない死を前にしていました。イエスといえども、恐れに心を騒がせていました。けれども、苦しみつつも、イエスは死を無視しませんでした。死と向き合いました。

 その結果、死は終わりではなく、自分があたらしいいのちへと変化することだ、という思いを獲得していったのではないでしょうか。さらには、自分の死、自分の変化が、まわりの人々をも、やがて、永遠の世界へと目覚めさせる、死をただ嘆くだけでなく、命の永遠を予感する生へと変えていくことを願ったのではないでしょうか。