(55)「冬枯れと思っていた景色の中には、じつは、紅や黄の花を咲かせるいのちが通っています」

 庭にシャクヤクが咲いた、と思ったら、どうもボタンのようです。去年の秋にいただいて、さっそく植えてみたのですが、どんどん葉が落ちて、枝も簡単にポキポキ折れるくらいに枯れてしまいました。もう引っこ抜いてしまおうと思いましたが、まあ、完全に枯れ果ててしまうまではとりあえずそのままにしておこうと思い直しました。

 すると、まあ、なんということでしょう。2月には枯れた枝に交じって、幹から芽が吹き、葉が広がり、3月にはつぼみを膨らませ、この4月、ついに花を咲かせたのです。枯れてしまった、大地から水も養分も通わせなくなってしまったと思ったら、じつは、生きていたのです。

 そう言えば、薄紅色の桜の花も、ぼきぼき折れそうな褐色の枝や樹皮がばきばき剥がれそうな漆黒の幹の中から、突如噴き出してきます。冬枯れの山吹の茶色の幹や枝も、やや緑づいたかと思うと、黄色の点をいくつも浮かび上がらせます。庭の芝生も、ゴザのようなわら色になった表面に、裏から少しずつ刺繍をほどこすかのように、薄緑の芽を現してきます。死んでしまったと思われるような冬景色は、その奥にいのちを灯し続けていたのです。
 
 聖書によりますと、イエスは十字架につけられ、死んで、墓に埋葬されました。イエスを自分のよりどころと慕っていたマグダラのマリアが墓に行きますが、石がとりのけられ、イエスの遺体はそこにありませんでした。

 マリアは、自分の大切なイエスがどこかに連れ去られてしまった、イエスは自分を置いてどこか遠くに行ってしまった、と悲嘆にくれ、ひたすらイエスを探し求めます。イエスはどこかに行ってしまった、一体どこに行ってしまったのか、と叫びながら。

 とその時、誰かの気配がします。ふりかえってみると、たしかに人がいました。墓地の管理人です。管理人は「どうして泣いているのですか」と尋ねます。マリアは、「いのちより大切な人、わたしの根本のよりどころがわたしを置いてどこかに行ってしまったのです」と答えます。

 すると、管理人は「マリア」と呼びかけます。よく知っている声、懐かしい声、そして、やさしさに満ちた声でした。マリアは「先生」と答えます。管理人だと思ったら、イエスだったのです。

 自分を置いてどこか遠くに行ってしまったと思ったら、大切な人は、じつはすぐ近くにいたのです。死んでしまったと思ったら、大切な人は、じつは、生きていたのです。マリアは、死は終わりではなく、死は死でなく、死を越えたいのち、死を越えた永遠のつながりがあることを知ったのです。