ぼくはキリスト教徒ですが、さまざまな差別、沖縄の米軍基地、安保法制などの問題に関心を持ってきました。宗教は社会の問題、政治の問題に関わるべきではない、と言う人がいます。けれども、これらの問題が先にあるのではありません。
人の人格、人生、生命が踏みにじられ、踏みつぶされている。人が叫んでいる。人が泣いている。人が途方に暮れている。人が血を流している。人が殺されている。
あってはならないことだ。あってはならないことが、どうどうとここにある。今すぐどうにかしなければならない。一秒たりともこれが続いてよいはすがない。
どうしたらよいのか。その人の背後には、社会があった。政治があった。社会と政治が、その人を、そして、ぼくをひねりつぶしている。こんなことは許されない。抗わなくてはならない。だから、社会と政治の問題を知ろうとし、関わろうとするのです。
この本の著者の若松英輔さんは、『苦界浄土』で「一貫して問われているのは、いのちの尊厳です。補償、あるいは賠償によっていのちの問題に決着がつくことはありません。それは人間の生死を超えるものであるとすら石牟礼は考えている」(p.17)と述べています。
生物としての生命が殺される。これはけっして許されることではありません。しかし、抹殺されたと思われたその生命は、その生命が二度と再生できないかけがえのなさ、また、その生命を出現させる神秘を奥底に秘めていたことを証ししないではいられません。それは人間の生死を超えた「いのち」です。
生命を殺すことは、いのちを殺すことでもありますが、生命が殺されても、殺されないいのちがあることを、生命の死は明らかにします。
人の生命を殺す者に否と叫ぶとき、ぼくたちは、背後の社会と政治を見ます。これはきわめて重要です。けれども、それだけでなく、ぼくたちは、いのちをも目撃します。だからこそ、ほんとうは、いますぐなくならなくてはならないのにずっとなくならない社会問題、人間の生命の闘いから、なんとか遠ざからないでいようとするのではないでしょうか。
ここで人が、人生が、生命が殺されているのだから、いますぐ解決しなければならないが、ずっと解決しない問題。いますぐ実現させなければならないが、ずっと実現しない正義。
ここで、ぼくたちは、いのちと並んで、もうひとつのものを見ます。それは、歴史です。闘って来た人々です。沖縄を見る人は水俣を見、水俣を見る人は足尾を見るでしょう。ヘイトクライムを見る人は、敗戦後の日本での在日朝鮮人の闘いを見るでしょう。安保法制に抗う人は、日本国憲法と9条の条文を守り、条文の実現を求めて闘って来た人びとを見るでしょう。こうして死んで行った人びと、殺されて行った人びとを見るでしょう。
若松さんはこれを、死者と呼び、歴史と呼んでいるようにぼくは感じています。そして、これは、じつは、いのちとは別のものではなく、生命が死に抗っていきることと死ぬことを通して証しするいのちとは分かちがたいものではないでしょうか。